キャリア女は「聡明な女は料理がうまい」をどう思うのか
『聡明な女は料理がうまい』というフレーズを作家・桐島洋子さんが社会へ送り出したのは、いまから43年も前の1976年。60年代後半に欧米で生を得たウーマンリブ運動が日本の知に明るい文化的な人々へと伝播し、やがてその言葉「リブ」が本来の意味「リベラル」に忠実であるか否かはともかく、一般的にも浸透した頃のことだ。
高校卒業後、その卓越した文才を見込まれて18歳で文藝春秋へ入社し、国境のない愛と、気骨あるジャーナリスト精神を携えて世界を放浪する、新時代の自由な女性として知られた桐島洋子さん。米国の性の自由の裏を描きとった『寂しいアメリカ人』で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞したのち、3人の子どもたちを連れて米国移住するというライフスタイルも、当時は「画期的」以上の驚愕をもって受け止められたものだった。未婚の母だとか、シングルマザーや事実婚という言葉を日本でもいち早く知らしめた、いわばパイオニアの1人だ。
当時の空気では、キャリア女性といえば、伝統的な価値観やもっさりと保守的な精神作法の対極、女性全員にあらかじめ期待された「家庭的」なるものを拒否するような位置にある「先進的」な存在として、女性社会をどこかへと牽引する役割を担わされていたように思う。だから端的に言って、キャリアと家事は相性が悪かった。キャリア女は料理をしない、料理ができないほうが、社会が持つイメージに沿っていたのだ。
ところが桐島洋子さんは、自身が「新しい女」としての社会的認知と注目を集める中で「聡明な女は料理がうまい」と自らの豊かな料理・社交術を紹介し、本はベストセラーとなった。
「あの桐島洋子」が放った『聡明な女は料理がうまい』。あらためて、当時40歳目前だった桐島さんの年齢に近い、あるいはそれを超えた現代の私たちは、このタイトルに何を思うだろう。
「そんなことのために教育を受けたんじゃない」
なぜだろう、家事は、中でも料理は象徴的に、いろいろな価値観やイデオロギーを背負わされてしまったように思う。
夫の駐在帯同でスイスに住んでいた時、香港と英国で投資銀行勤めのバリキャリだったという香港人のママ友が言い放った言葉が印象に残っている。「あーあ、今日も家族の夕食を作るのよ、私が。そんなことのために高い教育を受けたんじゃないわ」。「この私が、屈辱」と言わんばかりの空気から、夫の仕事のためにキャリアを中断して「駐在妻」的な専業主婦生活を「余儀なくされていた」彼女のフラストレーションと、それ以上に彼女のキャリア女性としての自負が裏返った「料理なんか」への軽蔑がひょっこりと顔を出して、なるほどそういう価値観があるのかと思った。
彼女にとって料理はアートなどではなく、「メシ炊き」という作業なのだろう。少なくとも、彼女は料理も、料理する自分自身も好きではないようだった。だが以来、そういうキャリア女性に、海外だけでなく日本でもわりと頻繁に出会うことに私は気づいた。
よくよく聞くと、そういう女性たちの母親は、専業主婦でとにかくまめに料理する人が多いようなのだ。父親や祖父母からの母親の扱われ方を見て育った娘たちには「自分はあんな風にはならない」という姿勢が見えた。中には、その専業主婦だった母親に人生を支配されたと感じている人たちもいた。その支配から逃げるために、母親から与えられる食を拒否して摂食障害になった、だから今も食べることにあまり興味がないのです、と重い告白をする人すらいた。
「女子、もはや厨房に入るべからず」?
「反動」。そうなのだろう。料理に「いいお母さん」「いい妻」という良妻賢母像が重ね合わされて語られた時代からの、揺り戻しでもあるのだろう。女の料理に良妻賢母を紐づけて語ったあの時代はあまりに長過ぎて、どうやら社会に奇妙な染みを残していったのじゃないか。レストランのシェフたちが広く美しい厨房で行うことはアート、だが家庭の台所で女(母、妻、娘)がすることは生活感溢れるメシ炊き。その「従順にメシを炊く女」という、明らかに敬意に欠けるイメージへの抵抗が、CM批判であったり夫婦の家事分担論争であったり、いまジェンダーを語る女性の毛穴から「料理を女性に押し付けるな」と噴き出している。
個人レベルでも、料理の話は相手の男女の別を問わず面倒を起こしがちである。料理ができると言えば「できる女はさすが〜、見習いた〜い(はいはい、実は女子力高いアピール乙)」、料理ができないと言えば「仕事忙しいもんね、いまは女の人だけが家事する時代じゃないもんね(ははっ、アンタ家事できなそうだもんねー)」。どうもサラッとカラッとしない。
そんな危なっかしくセンシティブな現状では、もはや「女子、厨房に入るべからず」である。そういえば先日、プレジデント社が発行するグルメ誌『dancyu』を読んでいて、男性2人があれこれぬか漬けを作るという特集の絵面にホッとしている自分がいた。いまの時代、どういう形であろうとも「ぬか漬け」に「女性」が掛け算されたら、それは必ずどこかの誰かの何かのスイッチを押す。メディアでは、もう男性しかぬか床を触るべきではないのだ。
ああ、料理なる行為に付加される「意味」がありすぎる。女でも男でも誰でも何でもいいから食べ物を自分で調理するというシンプルなことが、そのままの姿ではいさせてもらえない時代になったのは、いったい何のせいだろう?
私たちに覆いかぶさるステレオタイプ
私自身は、仕事も大・大・大好きだけれど、食に対してフツーに関心があり、お金を出して食べに行ったり買ったり取り寄せたりも好きだけれど、基本的には自分で作った方が早いし安上がりだし、習慣として料理する女だ。料理することへの強烈な苦手意識と強迫観念と、どこか専業主婦的な価値観への憎悪の念を持っていた少々エキセントリックな団塊キャリア母のもとに育った結果、「そうは言ってもさぁ」と反発と学習と自己受容の帰結として日々豪華でもなんでもないフツーの料理をし、テキトーに家族に食べさせ、フツーにテキトーに食と酒を楽しむ女だ。
私もまた、先述の料理嫌いの女性たちとは違った環境ではあるにせよ、祖母の世代、母の世代に料理や家事へ「女の生き方」イデオロギーやバイアスが重ね合わされて語られているのを見て育った。その結果、私は料理という行為に対し、なるべく主体的でニュートラルでありたいと努めてきたように思う。「自分が食べたい、自分が食べさせたいと思い、作れるから作る。他人が私に作らせるのではない」というふうに。母の背中を見て、自分が料理を愛せないのに「女はこうあるべき」なんて概念に作らされている料理が、美味しいわけがないと知っているからだ。
他人の「こうあるべし」を気にせず自由に
いま、70代の母は料理はひとつもしないで、代わりに日々多忙を極め、生き生きと存分に仕事をする。実家のキッチンは、引退して晴れて「専業主夫」となった父のクリエイティビティが炸裂する独壇場だ。
「料理をする男は女々しい、キャリア女性は料理をしない、専業主婦は丁寧な暮らしをしたい」
いったい誰が決めたのだろう、こんなつまらないステレオタイプが世間で独り歩きして、ひょっとしてもしかして、真面目で頑張り屋の現代の私たちはそんなものに振り回され、自分の好みを押さえつけてまで、懸命に応えたり、強迫的に反発したりしてきたのではないか?
そんなどこかの顔も見えぬ赤の他人が嬉しげに「そうあるべし」と言い放った基準に、いったいどうして私たちは人生の何十年をも費やして「そうですよねー」とおもねったり「冗談じゃないわ!」と反発したりしてるのだろう。それは「誰得」なのか? そもそもそれで誰かが得しているんだろうか?
桐島洋子さんのベストセラーエッセイから30年以上。食はシンプルに人生の楽しみであり、励みであり、感性の領域であり、人生の記憶だ。「食べる人」であれ「作る人」であれ、自分の意思で好きなものを食べられる元気な間くらい、料理や食に(他人の影響でのっかってきた)重たい意味を付加することなく、自由に楽しめる自由な人生でありたい。