中学進学にあたっては静岡県にある寄宿学校に進みたいと両親にお願いすると、父が大反対。しかし、娘の社会性を育てる教育に熱心だった母は、祖母と2人で父を取り囲んで説得してくれました。そうして、寄宿舎生活がスタート。ちょうど、兄もアメリカ留学で家を出ており、放課後はいつも家政婦さんと2人きりで過ごしていたので、24時間仲間と一緒にいられる寄宿舎生活は、毎日が楽しくて仕方がありませんでした。

喜怒哀楽を表さない職業人。突然の母の涙にびっくり

母は仕事だけでなく、社会活動にも精力的に取り組んでいて、アメリカ発祥のパイロットクラブ(女性主催のチャリティークラブ)の日本支部会長に任命いただいたり、母の本業、興信業の社会的地位向上のため、業界初の東京都調査業協会を立ち上げたりなど、多忙を極めていました。

(写真左)アンティークドール集めが趣味だった母。(同右上)佐藤さんが母に買って帰ったポーランド土産。この木彫りの置物が母の寝室に飾られていることに気付いたそう。(同右下)裏には「6/23日、85、ゆかりよりポーランドの土産」と母の筆跡で記されていた。

寄宿学校で中学・高校生活を送り、東京の大学へ進学して実家に戻っていた大学2年生のときのこと。タイのインドシナ難民キャンプでのボランティア活動に参加すると母に伝えると、母はそんな治安の悪い場所に行くなんてと大反対。でも、私の意思は固く、アルバイトで費用を貯めて渡航の準備を進めました。すると、出発前日、母が「お土産買ってきてね」とぽつりとひと言。この出来事で母のチャーミングな一面を知りましたね。

翌年、私は交換留学生としてアメリカへ。出発の際、母は空港で涙を流して見送ってくれました。職業人だったせいか、私の前で母が感情をあらわにすることはありませんでしたから、母が泣くとは正直驚きましたが、母に愛されているのだと強く感じることができた瞬間でもありました。その3年後には、アメリカにいる私の下宿先に母が遊びに来てくれました。母と2人で過ごした数日間。観光地を巡り、一緒に食事をし一日中、母がそばにいる……これほど長く一緒にいたことがなかったのでとても新鮮でしたね。

しかし、私が28歳のときに母が余命半年の宣告を受けたのです。アメリカで経済学の博士課程で研究に励んでいた私は、急いで帰国。当時は患者にガンの告知をしない時代でしたから、母に「すぐ退院できるから」と伝え、私はいつもどおり明るく振る舞っていました。でも、母は日に日に弱り、身動きはもちろん話すことも困難な状態に。