戦前・戦後をたくましく生き抜いた祖母と母
母・佐藤みどりは、1920(大正9)年、東京で生まれました。みどりの母・のぶえ=私の祖母は3人の子どもを産んだ後、結核を患い、お姑さんから嫁ぎ先を追い出されてしまいました。当時、結核は感染リスクの高い不治の病でしたから。
でも、祖母は自力で病を克服し、上京して日本橋に「佐藤探偵局」という興信所を立ち上げました。戦後の荒廃した日本で、女性が自ら会社を起こし、女社長として活躍しているということで新聞記事に取り上げられることもあったようです。
一方、母は両親の離婚後、祖父の元で育てられました。戦争が激化し、20歳頃、祖父母の生まれ故郷である茨城・水戸に疎開。配給品のサツマイモの入ったリュックを背負い、ぎゅうぎゅう詰めの疎開列車の手すりに必死にしがみついて何とか水戸まで辿り着いたという話を母から聞きましたね。疎開先では、国家総動員法により海軍技術研究所で働くことに。
戦後、“女性も手に職を”との考えから祖母の探偵局で修業し、東京・渋谷で「佐藤みどりリサーチセンター」を独立開業。それに先立ち、35歳のときに縁あって父・宏と結婚。父は慶應義塾大学在学中、学徒動員で海軍に召集され、人間魚雷への搭乗が決まっていたのですが、幸いにも出撃2週間前に終戦を迎えて復員。戦後は会社勤めをしていましたが、母との結婚で佐藤家に養子に入り、母の仕事を手伝うように。父は陰に日なたに母を支えていましたね。
両親が38歳のときに兄が、42歳のときに私が誕生。母は兄を目に入れても痛くないほど世話を焼いていた半面、私は比較的自由に育てられました。ただ母は多忙とはいえ、子育てをすべて人任せにしていたわけではありません。むしろ、しつけには厳しい人でした。私には「勉強しなさい」とはひと言も言いませんでしたが、教育環境にはこだわり、小学校を何度か転校したことも。
そして、何より自立を促す人でした。小学生のとき、家庭科で縫い物の宿題が出て、同級生が母親に手伝ってもらっていたので、私も母に「手伝って」とお願いすると、「あなたの宿題なんだから、自分のことは自分でやりなさい」とそっけないものでした。高学年になると、長期休みにサマーキャンプへ参加するように。それがとても楽しくて、長期休みを心待ちにするようになりました。