2人の“笑顔”は何が違うか
その理由は、海外育ちでハーバードから東大、外務省、オックスフォード留学とあれほどに優秀だった彼女がキャリアと自由を失い、ここ20年間カメラに向けて虚ろに浮かべ続けた、あのぎこちない笑顔にあると思う。日本的に意味もなく曖昧に可愛らしく笑ったりなどできない、帰国子女らしい彼女の不器用さ。だが紀子さまは画面に現れた時からずっと、ミステリアスで上品な笑顔を口元に張り付かせることのできる器用さがあった。
優秀な外交官たれ、日本の外交に資する人材たれと育った、真面目さと努力の塊のような雅子さまは日本のプリンスに大いに気に入られ、皇室に嫁ぐことが日本外交のためにできる最も大きな貢献だと自分に言い聞かせて、「象徴」になることを受け入れた。
女として妻として母としての一挙手一投足を無遠慮に眺め回され、背が高すぎて身長163cmの浩宮さまとのバランスが悪いの何のと、着ているものやら何やらから下世話な憶測までされ、ゴシップ誌やワイドショーや赤の他人の「エア姑たち」の茶飲話のネタとなった。「お世継ぎが産めない」というどうしようもない事実の前には、自分の積み上げてきた努力や専門性や哲学などしょせん無価値であると「人格否定」されても、一歩玄関ドアを出れば、人々の前でぎこちなく笑うしかなかった。病んで当たり前だ。
紀子さまの器用なスマイルは、それとは対照的に自分に突きつけられた要請や役割を早くから受け入れ、こなしてみせようという気概や自信を表していたように見えた。やはり海外で育ち、語学力も高く、伝統的な世間がホッと安心する「学習院育ち、就職経験のない女性」で、「次男の“嫁”」として家庭経営も子育てもバランスよくやり遂げ、雅子さまのゴタゴタを横目に、必要とあらば、見事なタイミングで難なく男子を産める紀子さまには、良くも悪くも「プロ嫁」と評価する向きもあったのだ。
逃げ出せない、逃げ出さない
雅子さまが適応障害と診断されて世間を賑わせていた頃、あまりに長い療養に「そんなに辛いなら、さっさと離婚しちゃえばいいのに」という意見があった。私は「新鮮だなぁ」と感じ、そういうことを考える人は絶対「雅子さま」にはならないし、羨ましいとさえ思った。
雅子さまの不器用な生き様にどこか自分をなぞらえるひと、共感する女は、雅子さまが当時皇太子妃としてどんなに苦しんでもその責任と立場を放棄するなんて発想がないからこそ、共感するのだ。逃げ出せない、逃げ出さない。どんなに自分が病もうとも、その病みにさえただ真正面から取り組む。超絶優秀なのに、信じられないくらい不器用。痛みも批判も、つねに自分が一身に浴びる。だから雅子さまなのだ。そんな雅子さまだから、私たちは好きなのだ。
産みたくたって産めない。自分の価値ってそれだったっけ。あれっ、自分がこれまでの人生でやってきたことって何なんだっけ? いや、そうか、これを引き受けたんだっけ。じゃあもう一度、真正面から対峙しなきゃ。