家族の死を知らされた日も、いつも通りの仕事を

ケアマネージャーの予想通り、母にとっては快適な施設は父にとっては苦痛なようでした。胃が弱く食が細く、あっさりしたものしか口にしない父には、食事も合わず、次第にやせ細り、どんどん衰弱していきました。おしゃれだった父の髪の毛も、介護の邪魔だからといつの間にか坊主のように刈り上げられました。その姿を見た時には、涙が出そうでした。人間の尊厳ほどが保たれないことに哀しさを覚えました。

父の好物をいろいろと差し入れしますが、衰弱は止まりません。施設の看護師さんにお願いして、系列の病院に頼み込んで移してもらいました。

「お父さん、少し元気になりましたよ」という看護師さんの言葉に喜んだ翌々日の早朝、出張先の金沢のホテルに、施設から父が亡くなったという連絡がありました。10月のその日は、奇しくも私の誕生日でした。

初めて身内を失ったその日、仕事を予定通り終え責任を果たし、急ぎ広島に向かいました。

施設と提携している小さな葬儀屋の祭壇で棺に横たわる父の表情は、苦しんだ様子もなく穏やかな顔でした。母に代わり、私が喪主となって葬儀を行いました。喪主としての挨拶も何もかも初めての経験でした。

まるで父を追いかけるように、妹も年の明けた1月2日になくなりました。脳腫瘍のため末期は私が見舞っても、誰が来たかわからぬ様子でした。

母との約束

あれから、3年。私はあいかわらず出張で家を空けることも多いのですが、母は今、自宅のすぐ近く、父が亡くなる前に一緒に入所していた施設ですごしています。家族が全員病気というストレスや、言い争いから解放された穏やかな生活で、認知症も驚くほど良くなりました。

「ここはいいわねえ。ごはんも作らなくていいし、私は楽ができるわ」

特に親しい友人もいない母に、時々私の育児時代の戦友が、お花や雑誌、お菓子などを届けてくれます。彼女は、はるか昔、お互いに専業主婦として年子の育児に明け暮れていた頃、心の支えでした。数年前に介護を経て親を看取っており、何も言わなくても苦しみや悲しみを理解して、そっとサポートしてくれます。また施設のケアスタッフ、お世話になったケアマネージャーの方々などとのご縁は、何より介護で疲れた心を愛情という栄養で満たしてくれるものだと感じます。

今年、90歳を迎えた母との約束は「今年こそは、姉妹に会いに母の生家がある千葉に旅行しよう」ということ。5人姉妹の長女である母は、いくつになっても、妹たちに会いたいようです。

仕事をあきらめず、介護を乗り切るために

あれだけ激しかった、父、母、妹を介護した日々は、今は嘘のように落ち着いています。

介護と仕事の両立で最も大切なのは、やみくもに頑張ることではなく、自己犠牲の精神でもない。保険で対応できるサービス、外部サービスや、各施設の特徴(多様な施設があり、複雑な上に、メリットデメリット等がわかりにくい)、介護全般にかかわる仕組みをよく理解し、うまく活用し人に助けてもらいながら乗り切ること。そして、騒がず逃げず介護に向き合うことだと今は思います。

人生に山谷はあれど、谷間におちてもいつか底を打つ時がくる。そして、必ず介護は終わるものです。

あの時、もし仕事を辞めていたらどうなっていたかを、ふと考えます。父や母、妹は喜んでくれたでしょうか。いえ、むしろ私などより、保険で賄える外部サービスのケアスタッフのほうが、他人だからこそ手厚い介護をして寄り添ってくれたようにも思うのです。

今、あなた自身を必要としてくれる仕事やポジションがあるなら、何より自分自身の人生を生き抜くことが、大切なのではないでしょうか。私自身、昨年から学会理事や東証一部上場企業の社外取締役を拝命し、ますます充実して仕事ができる環境が整った今、「あの時、辞めなくて良かった」と心から思うのです。

写真=iStock.com