田原祐子さんは、1998年に経営コンサルティング会社を起業。その10年後、東京と広島を拠点に忙しく飛び回っていた矢先、父親が倒れて介護に直面しました。さらに母親の認知症が始まり、妹の脳腫瘍が見つかり、家族3人が同時期にケアが必要な状態に。何度も難しい局面に立ちながら、それでも仕事を続けることを選び、それを貫いてきた理由とは――。父と妹を看取った今だから語れる仕事と家族のこと。3回の短期集中連載でお届けします。第3回目は父と妹の死について。
※写真はイメージです(写真=iStock.com/monzenmachi)

さらなる試練が突然訪れた

介護と仕事の両立のため、訪問看護、デイサービス、お手伝いさん、その他諸々の介護サービスを駆使して、父、母、妹とともに、綱渡りのような日々を過ごしていました。年間100日以上の出張をこなしながらも、車いすの父や認知症の母、体の弱い妹の世話を続けていたのです。それでも一定のペースで皆がそれぞれ暮らせる、平穏な日々が続いていました。

ところが、さらなる試練が突然押し寄せてきたのです。

「お母さん、頭が痛いの」と妹。

「毎月病院に通っているのだから、主治医の先生に一度見てもらったら?」

未熟児で生まれ、幼い頃から身体が弱い妹は、いつも不定愁訴状態気味です。かかりつけの医師も少々面倒になるほど、あれこれ症状を訴えるため、本気で取り合ってもらえないことも少なくありません。そんな妹は、数年前に乳がんで片方の乳房を切除した後、再発を懸念し、毎月欠かさず定期健診のため大病院に通院していました。そんなある日、事態は急変します。

妹の主治医から緊急の電話

いつものように、妹が定期健診に出かけて1時間もしないうちに、主治医から自宅に緊急と称する電話がかかってきたのです。

「妹さんは脳腫瘍の末期で、すぐに入院が必要です。手の施しようはありません。とにかくお姉さん、入院の手続きに来てください」。私は一瞬、耳を疑いました。

「脳腫瘍の末期ですか? 毎月、定期健診で診ていただいているのに、なぜこれまで見つからなかったのですか?」

「……。」口ごもる医師。妹の命は短ければ3カ月、長くても一年は持たないという医師を責めたい気持ちで胸がいっぱいになりました。しかし、また妹を看てくれるのはこの人しかないのだと思い、のどまででかかった言葉をやっとの思いで飲み込みました。

今思えば、身体の不調を訴える家族には細心の心配りが必要で、その都度病院に連れて行ったほうがよかったですし、ひとつの病院を過信せずセカンドオピニオンも必要でした。

父、母、妹、家族3人が、バラバラの施設へ入院

認知症が見え隠れする母と、車椅子が手離せない父と同居していた肝心の妹が、あと3カ月の命……。介護する側が最も介護が必要な状態となり、私は気が動転しました。有無を言わさず、妹は即入院。頭いっぱいに広がってしまった脳腫瘍は、いつ状態が急変するかわかりません。

ケアマネージャーが自宅に駆け付け緊急家族会議です。時間がありません。

「お父さんとお母さんは、症状が異なるので一緒の施設には入れません。」
「ええっ? 3人バラバラの施設に入るのですか?」
「それしか、方法はありません」
「……。」

彼女は、知りうる限りの施設あちこちに電話をしてくれますが、どこの施設も数カ月待ちの状態です。父は、以前入所していた医療法人の空いている部屋に何とか預かってもらえることになりましたが、認知症が始まっていた母は、引き取り先がありません。10件以上の施設に電話をかけ、やっと見つかったのは短期間預かってくれるショートステイでした。

妹の入院の支度をし、父の支度をして施設に送り込み、母をショートステイ先に連れていくと、母が突然怒り出しました。

「何、ここはどこなの? 姥捨て山? 知らない人ばかり。イヤよ、こんなところ」。

嫌がる母に申し訳ないと思いながらも無理やり送り込んで、やっと妹の看病に駆け付けます。妹の状態が落ち着くまでの約2週間、地獄のような日々でした。仕事にもまともに手が付けられず、スタッフに頼んで対応していました。

この時まで思いもよらなかったのは、介護が必要になった両親がともに同じ施設に入れるとは限らないということ。症状や介護度によって、入所可否が分かれるのです。緊急の場合はショートステイで乗り切りますが、割高なので各施設の費用は確認が必要。仕事と介護を両立させようとするなら、様々な施設や外部サービスを徹底的に調べつくすこと。これに尽きると今もって思います。

反対を押し切って父と母を同じ施設へ

妹は大病院の脳外科に入院していましたが、苦しさのあまり何度もナースコールを鳴らして夜勤の看護師さんたちを困らせました。痛み止めで眠りを誘う強い薬を処方されることが多くなり、かわいそうで見ていられません。緩和ケア施設(死を迎えるためのケア施設)も考えましたが、ケアマネージャーの勧めで、小規模多機能居宅介護施設に移ることになりました。

一方、バラバラになってしまった父と母を一緒の施設に入れようとすると、ケアマネージャーは心配顔で「お母さんと一緒だと、お父さんがかわいそう」と言います。認知症の始まった母と同じ施設では、体は弱って介護が必要でも、意識がはっきりしている父には、我慢ならない対応をされるからというケアマネージャーの助言を振り切って、二人を母の状態に合わせた施設に入れることを選択した私は、後で、大きく後悔することになります。

家族の死を知らされた日も、いつも通りの仕事を

ケアマネージャーの予想通り、母にとっては快適な施設は父にとっては苦痛なようでした。胃が弱く食が細く、あっさりしたものしか口にしない父には、食事も合わず、次第にやせ細り、どんどん衰弱していきました。おしゃれだった父の髪の毛も、介護の邪魔だからといつの間にか坊主のように刈り上げられました。その姿を見た時には、涙が出そうでした。人間の尊厳ほどが保たれないことに哀しさを覚えました。

父の好物をいろいろと差し入れしますが、衰弱は止まりません。施設の看護師さんにお願いして、系列の病院に頼み込んで移してもらいました。

「お父さん、少し元気になりましたよ」という看護師さんの言葉に喜んだ翌々日の早朝、出張先の金沢のホテルに、施設から父が亡くなったという連絡がありました。10月のその日は、奇しくも私の誕生日でした。

初めて身内を失ったその日、仕事を予定通り終え責任を果たし、急ぎ広島に向かいました。

施設と提携している小さな葬儀屋の祭壇で棺に横たわる父の表情は、苦しんだ様子もなく穏やかな顔でした。母に代わり、私が喪主となって葬儀を行いました。喪主としての挨拶も何もかも初めての経験でした。

まるで父を追いかけるように、妹も年の明けた1月2日になくなりました。脳腫瘍のため末期は私が見舞っても、誰が来たかわからぬ様子でした。

母との約束

あれから、3年。私はあいかわらず出張で家を空けることも多いのですが、母は今、自宅のすぐ近く、父が亡くなる前に一緒に入所していた施設ですごしています。家族が全員病気というストレスや、言い争いから解放された穏やかな生活で、認知症も驚くほど良くなりました。

「ここはいいわねえ。ごはんも作らなくていいし、私は楽ができるわ」

特に親しい友人もいない母に、時々私の育児時代の戦友が、お花や雑誌、お菓子などを届けてくれます。彼女は、はるか昔、お互いに専業主婦として年子の育児に明け暮れていた頃、心の支えでした。数年前に介護を経て親を看取っており、何も言わなくても苦しみや悲しみを理解して、そっとサポートしてくれます。また施設のケアスタッフ、お世話になったケアマネージャーの方々などとのご縁は、何より介護で疲れた心を愛情という栄養で満たしてくれるものだと感じます。

今年、90歳を迎えた母との約束は「今年こそは、姉妹に会いに母の生家がある千葉に旅行しよう」ということ。5人姉妹の長女である母は、いくつになっても、妹たちに会いたいようです。

仕事をあきらめず、介護を乗り切るために

あれだけ激しかった、父、母、妹を介護した日々は、今は嘘のように落ち着いています。

介護と仕事の両立で最も大切なのは、やみくもに頑張ることではなく、自己犠牲の精神でもない。保険で対応できるサービス、外部サービスや、各施設の特徴(多様な施設があり、複雑な上に、メリットデメリット等がわかりにくい)、介護全般にかかわる仕組みをよく理解し、うまく活用し人に助けてもらいながら乗り切ること。そして、騒がず逃げず介護に向き合うことだと今は思います。

人生に山谷はあれど、谷間におちてもいつか底を打つ時がくる。そして、必ず介護は終わるものです。

あの時、もし仕事を辞めていたらどうなっていたかを、ふと考えます。父や母、妹は喜んでくれたでしょうか。いえ、むしろ私などより、保険で賄える外部サービスのケアスタッフのほうが、他人だからこそ手厚い介護をして寄り添ってくれたようにも思うのです。

今、あなた自身を必要としてくれる仕事やポジションがあるなら、何より自分自身の人生を生き抜くことが、大切なのではないでしょうか。私自身、昨年から学会理事や東証一部上場企業の社外取締役を拝命し、ますます充実して仕事ができる環境が整った今、「あの時、辞めなくて良かった」と心から思うのです。