運動会前は、一軒一軒頭を下げて回る

運動会などの行事は、彼女にさあ疲弊しろと言うようなものだった。気の利いたお菓子に校長署名の手紙を添え、副校長を筆頭にPTA役員が列をなして地域の民家や地主宅を一軒一軒すべて、頭を下げて回るのだ。「○月○日○時~○時に運動会を執り行います。子どもたちの歓声や放送の音量、保護者の出入り、周辺の違法駐車駐輪、喫煙やゴミの投棄など、地域の皆さまには決してご迷惑をおかけせぬよう校内で取り締まりますので、何とぞご理解ご協力を賜りますようお願いいたします」。運動会におけるPTAの仕事とは、ひたすら児童や保護者の行動を「マナーを守ってください(しかしそれは誰のためのマナーなのか)」と時間ごとにパトロールして回る、組織的な「取り締まり」だった。

上の娘はその10年前に同じ小学校に通っていて、その時も私はPTA役員を引き受けていたが、こんなピリピリした様子ではなかった。しばらくの海外生活を経て帰国し、その小学校を今度は息子と訪れた時、同じ校舎のはずの学校敷地が周辺へ音や砂で迷惑をかけないよう、そして外から見えないよう暗い防塵シートですっかり囲まれ、正門は鉄鎖で閉じられ、防犯カメラとインターホンで武装された通用門から防塵シートをくぐって入るというスタイルになっているのを見て、「日本の学校はこんな状態になっているのか」と異様さにギョッとしたものだ。

日本の子ども嫌いは加速している

「人に迷惑をかけてはいけない」というプレッシャーがある日本社会において、そもそも子育ては親がかなり無理を強いられる行為のような気がしている。のどかさを残した時代であったなら子育ても「お互い様」と言えるが、少子化で子どもと接するチャンス自体が昔より明らかに減った現代都市では、子どもはイレギュラーな存在だ。鹿の仔とは違って産まれてすぐに自分の脚で立つわけでもなく、自分で食べ物を取りに行けるわけもない人間の子どもは、親からの注意を引きケアしてもらうべく大声で泣く。存在自体が本質的に「迷惑をかける」のであり、それが当たり前なのだが、少子化社会の都市生活は、そんな迷惑者への寛容さを著しく低めていくことで、都市としての機能や効率を上げているのではないか。

効率を尊ぶ社会では、「非効率の塊」とさえ言える子どもを持つ動機も低減する。そうして社会生活の中で子どもと接する機会自体が減れば、さらに子どもや子育て中の親への共感は低くなる。だから日本の子ども嫌いは加速している。――海外から帰国したばかりの頃、私はそんな印象を持った。

そう理解してから世の中を見ると、目黒区の閑静な住宅地での保育園建設反対署名であるとか、球技や大声を出すのが禁止されている数々の「児童」公園とか、ベビーカーや幼い子連れが乗り込むと露骨に舌打ちする電車内の乗客とか、地域で見過ごされる児童虐待とか、「いかにも(本当は子どもを迷惑な存在だと思っている)日本らしいな」と思うのだった。