運動会で見られる「配慮」
学校で働いていて、徒競走で「みんなで並んでゴールする」というのは流石に見たことはありませんが、教員がけっこう気を遣っていろいろ工夫しているのは目にしています。以下の事例は、最近の学校でよく見られる「配慮」になります。
小学校2年生の女子児童。体育で50m走をしたがタイムの公表はされないため、自分も含め同級生の足の速さはよくわかっていない。女子児童のタイムはかなり上位だったが、運動会の徒競走では「足が速いグループ」で走ることになり6人中5位になった。
足の速い子と遅い子を一緒に走らせると、大きな差がついてしまうので、事例のように足の速さが同じくらいの子ども同士で走らせる……というのは最近の運動会でよく見られる「配慮」です。こうした「配慮」をしておかないと、さまざまな意見が学校に寄せられるという話も耳にします。
「配慮」によって失われる体験
ただ、この「配慮」によって、失われる体験もあります。例えば、体育の50m走でタイムが公表されないのは、互いの差を明示しないという「配慮」であったと思われますが、「自分は足が速い(遅い)」というのは自己イメージを構成する要素の一つでもあります。大袈裟なように感じるかもしれませんが、「○○ができる」「△△が苦手」といった情報は、子どもたちが「自分はどんな人間なのか」を創り上げていくのに資するものですから、子どもたちが認識できるように提示することが大切です。
また、運動会の徒競走で「足が速いグループ」と「足が遅いグループ」に分けることで、確かに誰の目から見ても明らかなほどの「差」が示されることは無くなります。一方で、足の速い子どもからすると「自分は足が速いんだ」という自己規定を持ちにくくなり(事実、この事例では足が速い自覚が薄いうえに低い順位になっている)、足の遅い子どもが「自分は走るのが苦手なんだ」という現実に触れる体験が薄まることになります。
もしかすると、誰の目からも明らかな「差」を見せること、不快な感情を引き起こす「現実」に触れることが「可哀想だ」という意見を持つ人もいるかもしれません。しかし、それは子どもを弱い存在と考えすぎです。子どもたちは確かな支えがあれば、自分の現実に向き合い、それを受け容れていく力を備えているのです。