やさしくて芯の強い母は、しつけも厳しかった。僕が友だちと喧嘩して帰ると、家に入れてくれないのです。ベソをかいて玄関に立っていると、どうしたのかと聞かれ、「喧嘩して負けちゃった」と言うと、「殴り返したの?」と。何もできず帰ってきた僕は「そのままではもう明日は公園に行けなくなるでしょう」と諭され、仕方なく公園へ戻ると、子ども同士の喧嘩だからすぐに仲直り。母もやさしく迎え入れてくれました。
さらにクリスマスの出来事で心に残るのは、母の職場の友だちにレインコートをプレゼントされたこと。きれいで上質なものだけれど、僕は全然うれしくなく、それが顔に出てしまった。あのときも母から、「相手は自分のお金を使い、あなたに喜んでもらいたいと選び、贈ってくれたのに、何でわからないの?」と、ひどく叱られました。母自身も多様な文化の中でいろんな経験をしていたから、人の心を慮(おもんばか)る、感性が豊かな人だったと思います。
フランス語も陶芸も母と一緒に習った
母に好きな人ができて職場結婚したのは、僕が13歳のとき。その男性は弁護士で、母が勤める出版社で法律系の本の編集をしていました。とにかく愉快な人で、彼といる母は輝いていたので僕もうれしかった。1年後に妹が生まれ、まもなく一家でヨーロッパへ飛び出したのです。
イギリスの田舎町で古いパブだった家を借りて1、2カ月暮らし、その後パリで1年ほど過ごしました。僕は母と一緒にフランス語学校へ通い、日常会話もできるようになったので、妹が熱を出すと病院へ連れて行き、何か問題があると近所の人との橋渡しを務めました。おかげで自立心が育ち、親への反抗期もありませんでしたね。
アメリカへ帰国後はサンフランシスコへ。高校時代はダンスに夢中になり、母と陶芸や写真の教室にも通っていました。カリフォルニア大学バークレー校へ入ると、勉強がおもしろくなったので経済学と東アジア言語文化の2つを専攻。いずれの道を選ぼうかと迷い、4年のときに1度だけ両親に進路の相談をしました。
母と父の出会いが出版社ということもあり、良いイメージもあったので、編集者はどうかと伝えると、「やめなさい」と反対されました。編集者は作家と一緒に本を生み出す重要な仕事だけど、「あなたは自分で本を書いたほうがいいんじゃない?」と。どんな分野でもいいから、自分がコンテンツをつくることで幸福になれるのではないかと、きっぱり言われました。