日本文学の研究者で、現在は国文学研究資料館の館長を務めるロバート・キャンベルさん。ハーバード大学の大学院へ進み、27歳で九州大学へ留学。「体の一部同然だった」という母親は、留学には反対しませんでしたが、「まさかそのまま帰ってこないとは考えてもいなかったと思う」といいます――。雑誌「プレジデントウーマン」の好評連載からお届けします――。
(左)母ジョーンさんは話し上手で、誰とでも友だちになれる人。日本へ留学後、母が1994年に来日。毎日訪れていた食堂のおばさんとも仲良くなり、「あなたが良い人たちに囲まれていて安心した」とうれしそうだった。(右)国文学研究資料館長 ロバート キャンベルさん

僕を身ごもったときから、母は食事にとても気を遣っていたそうです。父方の祖父が栄養学を勉強していて、できるだけ有機栽培のものを食べたり、冷凍食品や加工食品を使わないで子どもを育てるように勧めたのです。今も忘れられないのは離乳食。牛乳ベースでムース状にしたものの中に牛レバーと茹でたニンジンも入っていて、これが猛烈にまずかった(笑)。幼い頃、友だちの家へ行くと、ふわっとした白い食パンにハムとマヨネーズを挟んだハムサンドが出てくる。子どもはそれが好きだけれど、家では全粒粉のパンに肉のサンドイッチ。でも、母が手をかけてつくってくれた料理はおいしかったですね。

実は僕が物心つく前に父が家を出ていたので、母はシングルマザーでした。アパートの隣に彼女の両親が引っ越してきて、初孫の僕をかわいがってくれたのです。祖父母はアイルランドの農村から渡ってきた移民で、祖父はニューヨークの地下鉄の運転士をしていました。私たちが暮らすブロンクス地区にはアイルランド人のコミュニティーがあり、親戚も周りに住んでいる。うちは母と2人きりでも、いとこたちは大家族で寂しい思いをしませんでした。

小学校から帰ると、祖父母の家にはいつも叔母たちが集まり、紅茶を飲んでいました。お菓子を持ち寄るので、僕も食べさせてもらえる。祖母はアイルランド音楽で使うコンセルチーナという楽器の名手で、それを奏でながら皆で踊ったり、祖父はちょっとエッチな歌をアイルランド語で歌ったり。大人たちは子どもに聞かせたくない話になるとケルトの言葉に切り替えてしまうので、それは悔しかったものです(笑)。

僕にとっては楽しい思い出でも、母は家族とのギャップを絶えず抱えていたと思います。彼女はアメリカで育ち、高校卒業後に就職。当時は出版社で社長の秘書を務め、会社の切り盛りもしていました。マンハッタンの中心街のオフィスで働く、今でいうキャリアウーマンですね。

おしゃれな人で、すごく腕のいいイタリア人の仕立て屋さんで洋服をあつらえていました。毎朝、きれいな格好をして、ヘアスプレーで髪をセット。風を切るように颯爽(さっそう)と出かけていく姿は、子ども心にも“カッコいいママ”でした。

1960年代から70年代のニューヨークでメディア関係の仕事をこなす日々と、昔ながらのアイルランドの文化が息づく日常生活。価値観もまるで違う世界の狭間で生きる母は家族との溝も感じていたでしょう。カトリックの信仰が篤い家庭では、たとえ夫がいなくなっても離婚は認められず、次の人生ヘと舵を切って進むこともできない。僕のことは大切に育ててくれたけれど、母自身はきっと寂しさもあったと思います。

やさしくて芯の強い母は、しつけも厳しかった。僕が友だちと喧嘩して帰ると、家に入れてくれないのです。ベソをかいて玄関に立っていると、どうしたのかと聞かれ、「喧嘩して負けちゃった」と言うと、「殴り返したの?」と。何もできず帰ってきた僕は「そのままではもう明日は公園に行けなくなるでしょう」と諭され、仕方なく公園へ戻ると、子ども同士の喧嘩だからすぐに仲直り。母もやさしく迎え入れてくれました。

さらにクリスマスの出来事で心に残るのは、母の職場の友だちにレインコートをプレゼントされたこと。きれいで上質なものだけれど、僕は全然うれしくなく、それが顔に出てしまった。あのときも母から、「相手は自分のお金を使い、あなたに喜んでもらいたいと選び、贈ってくれたのに、何でわからないの?」と、ひどく叱られました。母自身も多様な文化の中でいろんな経験をしていたから、人の心を慮(おもんばか)る、感性が豊かな人だったと思います。

フランス語も陶芸も母と一緒に習った

母に好きな人ができて職場結婚したのは、僕が13歳のとき。その男性は弁護士で、母が勤める出版社で法律系の本の編集をしていました。とにかく愉快な人で、彼といる母は輝いていたので僕もうれしかった。1年後に妹が生まれ、まもなく一家でヨーロッパへ飛び出したのです。

シングルマザーだったジョーンさんは、こよなく愛情を注いでくれた。子ども時代を過ごしたニューヨークで買ってくれた初代のテディベア。周りで支えてくれる人に「ありがとう」と感謝する気持ちも、幼い頃から母に教えられた。

イギリスの田舎町で古いパブだった家を借りて1、2カ月暮らし、その後パリで1年ほど過ごしました。僕は母と一緒にフランス語学校へ通い、日常会話もできるようになったので、妹が熱を出すと病院へ連れて行き、何か問題があると近所の人との橋渡しを務めました。おかげで自立心が育ち、親への反抗期もありませんでしたね。

アメリカへ帰国後はサンフランシスコへ。高校時代はダンスに夢中になり、母と陶芸や写真の教室にも通っていました。カリフォルニア大学バークレー校へ入ると、勉強がおもしろくなったので経済学と東アジア言語文化の2つを専攻。いずれの道を選ぼうかと迷い、4年のときに1度だけ両親に進路の相談をしました。

母と父の出会いが出版社ということもあり、良いイメージもあったので、編集者はどうかと伝えると、「やめなさい」と反対されました。編集者は作家と一緒に本を生み出す重要な仕事だけど、「あなたは自分で本を書いたほうがいいんじゃない?」と。どんな分野でもいいから、自分がコンテンツをつくることで幸福になれるのではないかと、きっぱり言われました。

僕が日本語を学び、日本文化を研究することは母も喜んでくれました。ハーバード大学の大学院へ進み、27歳で九州大学へ留学したときも反対はしなかったけれど、まさかそのまま帰ってこないとは考えてもいなかったと思います。日本で仕事の機会を与えられたときも、「ぜひやりなさい」と支えてくれたけれど、やはり近くにいてほしいという思いはあったと思います。

毎年1、2回はアメリカへ帰り、家族に会いに行っていた。一緒にいろんなところを訪れ、母が来日したときは熊本城へ案内。(左)母はアンティークを好み、晩年にはオークションサイトで買ったオメガの時計をプレゼントしてくれた。

体の一部同然だった母の突然の死

その母が亡くなったのは2001年3月。妹から電話で突然の知らせを受け、両親が暮らしていたペンシルベニアへ帰りました。亡き母と対面して自宅へ戻ると、僕は葬式の手はずを整えなければなりませんでした。生前から母は、家の権利書や通帳、大切な書類などがどこにあるかを僕に教え、いざというときは「あなたに託す」と頼まれていたからです。

僕にとっても、母はいろんなことを相談できる人でした。自分の体の一部のような存在だったので、突然いなくなったときは胸をえぐり取られたような痛みを感じました。父と再婚するまでは僕が母について並走しており、2人だけが共有する歴史もあった。母が亡くなったことでそれが永遠に失われ、自分の夢の時代を半分消されてしまったような寂しさもあります。それでも今なお、母はいつも私の胸の中にいてくれることに変わりはありません。

ロバート キャンベル
1957年、米国ニューヨーク市出身。ハーバード大学大学院東アジア言語文化学科博士課程修了。文学博士(日本文学専攻)。85年に九州大学文学部研究生として来日。九州大学文学部講師、東京大学大学院総合文化研究科教授などを経て、2017年から現職。