家臣団での地位を徳川四天王らに脅かされた

数正は天正7(1579)年以降に岡崎城代を務めたが、その間、徳川家臣団は遠江で武田勝頼との激戦を繰り返し、“徳川四天王”とも呼ばれる榊原康政・本多忠勝ら中堅が育ってきた。かれらは質量でまさる武田軍を相手にしているから、「気合いと根性」が並大抵ではない。秀吉なんか屁とも思っていないのだ。家康は子飼いの家臣を抜擢する際に、気が強く積極的であることを条件にしたフシがある(『徳川家臣団の謎』)。数正の降格は時間の問題だっただろう。

【図表2】徳川家臣団・合戦でのポジション変遷
筆者作成

『特別展 安城ゆかりの大名 三河石川一族』によれば、数正は秀吉に転仕した後、秀長の領国である和泉(大阪府西南部)の一部を与えられたという(石高は不明、一説に8万石)。天正18(1590)年に家康が関東に移封されると、石川数正は松本城8万石(長野県松本市)を与えられ、文禄2(1593)年に満60歳ほどで死去した。

秀吉に8万石を与えられ、転職成功

家康はシブチンで、家臣の家禄はいずれも低かった。関東移封で「三人衆」(井伊直政・榊原康政・本多忠勝)はいずれも10万石以上を賜ったが、これは秀吉の指示だったという。石川数正が徳川家に残留しても、せいぜい3万石くらいしか与えられなかっただろう。同時期に秀吉から松本8万石(10万石とも)を与えられたことを考えれば、石川数正の転職は成功だったといえるのではなかろうか。

【図表3】徳川家臣団10人の年齢と石高
筆者作成