大河でも少年時代からの家臣と描かれた
大河ドラマ「豊臣兄弟!」(NHK)で、いつも徳川家康(松下洸平)の側近く仕える男がいる。石川数正(迫田孝也)だ。しかし、数正は小牧・長久手の戦いの後、家康を裏切って秀吉の下に出奔してしまう。
通常「石川数正」と呼ばれているが、当時の名前は「石川康輝」だった。永禄年間に「石川内記頼正」と名乗り、天正に入って「石川伯耆守数正」、天正13(1585)年頃に家康から偏諱を受け、石川伯耆守康輝と改名。さらに秀吉から偏諱を受けて石川出雲守吉輝と改名した(本稿では紛らわしいので、数正に表記を統一する)。一部の系図などでは数正のことを「与七郎康昌」と記しているが、父を康正とする系図があることから、父の諱と混同している可能性が高い。
数正の生年は不明。一説に天文2(1533)年で、家康より9歳年長。天文18(1549)年に家康が今川家の人質になった時、数正はその従者となった。
ただし、数正だけが従者になったわけではない。俗に「七人衆」(実は8人)と呼ばれた一人に過ぎない。酒井政家(一般には正親)が最年長で、石川数正がその次、以下、野々山元政、阿部正勝、阿部重吉、天野康景、平岩親吉、内藤正次がいた(平岩は大河ドラマ「どうする家康」で岡部大が演じた)。
平岩親吉は“家康の親友”になったが…
家康はその前に織田家の人質になっており、その時の従者は阿部正勝、平岩親吉だけだった。阿部が筆頭家老の親族。平岩親吉は家康と同い年で、家康の乳母の甥にあたる。当初の従者はもっと大人数だったが、織田家に移送される際に人数が制限され、筆頭家老の親族でお目付役の阿部と、家康の親友・平岩が選ばれたのだろう。
平岩は家康の嫡男・岡崎信康の家老を務め、家康の八男・仙千代を養子にもらい、甲斐一国(郡内地方を除く)を与えられるほど出世したが、阿部正勝は幕末の老中・阿部正弘の先祖ではあるが、自身は5000石どまりで、出世したとはいえない。うるさいお目付役と無二の親友との差だろう。
また、阿部重吉に至っては嗣子に570石が与えられたのみである。なので、人質時代の従者とはいえ、それだけで数正が家康の信任を得たとはいえない。
石川数正の叔父・家成という存在
家康は桶狭間の合戦後に三河統一に動き、永禄10(1567)年頃に「三備」という軍制改革を行い、有力家臣を東の旗頭・酒井忠次、西の旗頭・石川家成の組に分け、さらに家康直轄の旗本備を置いた。そう、この時期、徳川家臣団の二大巨頭は酒井忠次と――石川数正じゃなくて――石川家成だったのだ。
石川家成は数正にとって叔父にあたる。生年は天文3(1534)年で、数正の生年が1533年であれば、叔父でありながら1歳年下となる。なぜ、数正ではなく、叔父の家成が西の旗頭に選ばれたのか。それには二つの理由が考えられる。
家成は家康の実の従兄弟だった
第一に、家成は徳川家康にとって実の従兄弟にあたる。数正の祖父・石川忠成(一般には清兼)が水野妙茂(一般には忠政)の娘を後妻に迎え、その間に生まれたのが石川家成だ。家康の母・於大の方は妙茂の娘であるから、家成は家康の従兄弟になる。
第二に、三河一向一揆で一揆勢のボス格となった石川修理広成が、数正の実父の可能性がある。三河徳川家研究者の煎本増夫氏は、『寛政重修諸家譜』の石川清兼の項に「嫡孫伯耆守(数正)」という記述があることに注目し、その父・広成(康正)は石川家の嫡男であったが、三河一向一揆の首謀者となったために廃嫡され、三男の家成が家督を相続したのだと推測している(『戦国時代の徳川氏』)。
掛川城主に抜擢された石川家成
家康は三河統一を果たすと遠江(静岡県西部)に侵攻。永禄12(1569)年に石川家成を掛川(懸川)城主(静岡県掛川市)に抜擢した。ここで、西の旗頭の家成が東側の最前線に赴任する逆転現象が起き、甥の数正が西の旗頭を引き継いだ。また、天正7(1579)年に築山事件が起こり、岡崎城主・岡崎三郎信康が自刃させられると、数正が岡崎城代を務めた。
天正12(1584)年の小牧・長久手の合戦で石川数正は酒井忠次等と小牧山の本陣を守り、合戦後には羽柴秀吉との交渉役となった。同年12月、家康は次男・於義丸(結城秀康)を秀吉の猶子として差し出すことを決め、石川数正の次男・勝千代(のち石川康勝)、本多重次の長男・仙千代(のち本多成重)も秀吉の下に送られた。
数正は妻子を連れて秀吉の下へ出奔
小牧・長久手の合戦後、秀吉は織田・徳川連合軍に加担した諸将への征討を開始。翌天正13年8月に越中(富山県)の佐々成政を降した。これに先立ち、秀吉は家康が成政に通じているとして、追加の人質を要求した。石川数正は秀吉との交渉役として家康への説得を試みるが、徳川家臣団の反発は強く、交渉は決裂。天正13年11月13日、数正は妻子を連れて岡崎から織田信雄の領国・尾張に出奔し、そのまま秀吉に仕えてしまう。
秀吉と交渉するうちに徳川家中で浮いたか
「豊臣兄弟!」のガイドブックによれば、数正が出奔した理由については、三方原の合戦で武田信玄に大敗した家康が、その後は数正を自分を諫める役に任じたからだという。
実際のところ、その理由は分かっていない。数正は秀吉との交渉役で大坂城をたびたび訪れており、秀吉の実力を誰よりも知っていた。そのため、対秀吉強硬派が多い徳川家臣団では浮いた存在になってしまったというのが有力な説だ。
サラリーマン的な視点で考えると、数正は社内人事で世代交代をまざまざと見せつけられたところに、高額な報酬をちらつかせた競合企業からヘッドハンティングのお誘いがあり、乗ってしまったというのが実相ではないか。
姉川の合戦、三方原の合戦、長篠の合戦ではいずれも、石川数正は三備の一角を預けられた。しかし、長久手の合戦では小牧山守備隊の一員にとどまり、かつ消極的な姿勢を家中から嫌われたという。
家臣団での地位を徳川四天王らに脅かされた
数正は天正7(1579)年以降に岡崎城代を務めたが、その間、徳川家臣団は遠江で武田勝頼との激戦を繰り返し、“徳川四天王”とも呼ばれる榊原康政・本多忠勝ら中堅が育ってきた。かれらは質量でまさる武田軍を相手にしているから、「気合いと根性」が並大抵ではない。秀吉なんか屁とも思っていないのだ。家康は子飼いの家臣を抜擢する際に、気が強く積極的であることを条件にしたフシがある(『徳川家臣団の謎』)。数正の降格は時間の問題だっただろう。
『特別展 安城ゆかりの大名 三河石川一族』によれば、数正は秀吉に転仕した後、秀長の領国である和泉(大阪府西南部)の一部を与えられたという(石高は不明、一説に8万石)。天正18(1590)年に家康が関東に移封されると、石川数正は松本城8万石(長野県松本市)を与えられ、文禄2(1593)年に満60歳ほどで死去した。
秀吉に8万石を与えられ、転職成功
家康はシブチンで、家臣の家禄はいずれも低かった。関東移封で「三人衆」(井伊直政・榊原康政・本多忠勝)はいずれも10万石以上を賜ったが、これは秀吉の指示だったという。石川数正が徳川家に残留しても、せいぜい3万石くらいしか与えられなかっただろう。同時期に秀吉から松本8万石(10万石とも)を与えられたことを考えれば、石川数正の転職は成功だったといえるのではなかろうか。
数正の息子たちは関ヶ原でどうしたか
数正の子・石川玄蕃頭三長(一般には康長)が父の遺領を受け継ぎ、豊臣系大名だが関ヶ原の合戦で家康方につき、所領を安堵された。しかし、慶長18(1613)年に大久保長安の事件に連座して改易されてしまう。弟の石川康勝は大坂の陣で秀頼方につき大坂城に籠城。元和元(1615)年に討ち死にしたとも、落ち延びて京都に移住したともいわれる(『大坂の陣 豊臣方人物事典』)。
なお、石川家成の子孫は2家が大名として存続して明治維新を迎えたが、戦後に零落して2家とも所在不明になっている。こんな大名家は他にない。主家を裏切った数正の報いが石川一族に及んだかと、一瞬脳裏をよぎってしまう。