皇室典範改正への世論となった地方議会
今回の国会審議において、皇室典範改正を中心となって推進したのは、自民党の麻生太郎副総裁をはじめとする保守的な立場をとる政治家であった。
その手法は相当に強引なもので、それが批判を招くことにも結びついているが、強引にでも法改正を進めることができたのは、それを支持する勢力が確実に存在したからである。
これは、飯島町の意見書について報じた「週刊女性PRIME」(10月8日)の記事で、成城大学の森暢平教授が指摘していることでもあるが、法改正の推進派は、保守派の議員を使い、地方議会で同じような内容の意見書を決議し、地方から皇室典範改正の必要性を訴える世論を作り上げていったのである。
つまり、皇室典範の改正は、麻生氏のような上からの働きかけだけではなく、地方という下からの動きによって実現されたというわけである。
旧宮家からの養子案など、一時は議論からまったく外されていた。それも、旧宮家の人々は、皇族を離れてからすでに何代も世代を重ね、皇室との関係は希薄になっているからである。元をたどれば、今の天皇とは38親等も離れている。皇室にとっては“赤の他人”を迎えることなど、そう簡単にできるものではない。
ところが、なんとしても「女性・女系天皇」の実現を阻止する、つまりは愛子内親王が天皇になる道を鎖すために養子案が持ち出され、実際に皇室典範の改正が実現した。それも、地方議会での意見書の積み上げというやり方が功を奏した。「それが世論である」と主張できたからである。
国策に影響を与えた国民運動の成果
実は保守派は、これまでそうした手法を駆使することで、さまざまに成果を上げてきた。下からの積み上げで、国の政策を変えていく動きは「国民運動」と呼ばれるが、保守派の国民運動は、彼らにとって輝かしい歴史を持っているのである。
最初は、「建国記念の日」の制定だった。
戦前において、2月11日は、神話では初代の天皇とされる神武天皇が即位した日とされ、「紀元節」と呼ばれ祭日になっていた。
ところが、日本が戦争に敗れたことで、戦後、軍国主義の象徴としての紀元節は廃止された。それを復活させようというのが、保守派の試みた国民運動だったのである。
リベラルな立場の人たちは、それは「戦前回帰」だと強く批判した。そのため、法案は廃案になったりもしたし、紀元節そのものは復活しなかった。だがそれは、1966年に「建国記念の日」という形で制定され、翌1967年から国民の祝日となっている。保守派の国民運動は、大きな成果を上げたのだ。
その後も、元号法の制定や国旗国歌法の制定が国民運動として実現され、さらには大きな変化を生んだ。