千代の下宿先に通ってきた男

千代は「晩飯を食べてお行きんされるか」と聞き、母屋からもらってきたジャガイモを煮た。2人は黙ってそれをつついた。ランプだけの暗い部屋でふたりで晩ごはんを食べるということは、次の展開を容認してるも同然だった。千代は後年書く。「結婚を厭いやがっているのに、なぜ男のために夜食を用意したりするのか」。それは将来作家になる女が持つ、好奇心だったのではないか。そしてまた、結婚と性的関係は別であるというある種モダンガール的発想が根底にはあったのではないか。

千代は雨の音を聞き、立って障子をしめた。その拍子に男が着物の裾を掴んだために千代は倒れた。そのまま畳の上に転がされ覆い被せられると、男の手が帯にかかったのを感じた。千代はこの後の展開をわかっていた。声を上げれば、母家の人たちが駆けつけてくることもわかっていた。それでも千代は声を上げなかった。そして力いっぱい男を押しのけると、奥の板敷きの部屋まで転がって行った。

32歳のころの宇野千代、1930年9月12日
写真=共同通信社
32歳のころの宇野千代、1930年9月12日

男女の情事を知りたかった

千代は書く。

「何故、上がり框の障子をしめたままで、奥の板敷きの部屋まで転がって行ったのか。それは、人に気づかれないで、男を奥まで誘い込む積もりだったのか。分からない」。

男は、着物がはだけて裸になった千代の上に乗ってきた。

「私は動かなかった。何が起こるのか、私は知っていた。私はそれを待った。夢にも結婚する気はないのに、私はそれを待った。男の真下に組み敷かれて、私が何をされるのか、私は自分の眼で、はっきりとそれを見たかった。一瞬の間に、それは終わった。これが、あのことか。私は男から逃げないで、ただそのことだけを渇望して、男に組み敷かれたまま動かなかったのだと思うと、その恥ずかしさのために、男の顔を見ることが出来なかった」。(『生きて行く私』)

あっけなく行為が終わった後、気恥ずかしさから千代は大声で突然「あ、雪が降っとる! 雪が降っとる!」と叫んだ。男は仰天し、千代の名を呼んで頬を叩いた。それでも千代が叫び続けると慌てて障子を開けて裸足のまま外へ飛び出し、帰ってこなかった。