実家に帰った時の父の反応は…
父は、時計の間と呼ぶ部屋に床を取っていた。千代が家を出てからずっと臥せったままで、幾度も血を吐いたという。顔はこの10日でまるで変わっていた。眼窩は落ち窪み、骸骨のようだった。千代が声をかけると、父は「足を撫でてくれい」とだけ言った。「なぜ戻った」とも、「早く帰れ」とも言わなかった。
父は病気なのだ。だから、自分はこのまま実家にいてもよい。父の衰えを悲しむより、もう鉄砲小路へ帰らなくてよいことが嬉しかった。千代はそう振り返る。刑部の評伝には、このときの千代の行動を父の看病を口実に、10日ほどで実家へ戻ったと記している。
翌日、千代は父のために、三里、約12キロ離れた阿品のお大師さまへ詣でている。嫁ぎ先へ帰らなくてよいことを喜び、その翌日には父のために祈る。その両方を書き残している。婚家を逃げ出す劇的な夜も、父に頭を下げる場面もない。あるのは、橋を渡らなかった午後だけである。
結婚は、千代の女学校生活をやめなかった。嫁入りの荷物に学校道具を入れ、婚家からも通学し、学校の帰り道に実家へ戻った。千代が在籍した岩国高女の『校友会誌』によれば、この明治44年度、本科2年生の千代は「成績抜群」「本学年中精勤」の褒章を受けている。3年では校友会の役員を務めた。
まだ何者でもない少女の記録
父の俊次が57歳で亡くなったのは、大正2(1913)年2月8日。嫁入りから1年余りがたち、千代は女学校3年に在学していた。4年の校内学芸会では、同級生と「コロンブス」や「楽しき我が家」を披露した。
大正3(1914)年3月に卒業すると、翌月には川下尋常高等小学校の代用教員に採用され、月給8円を得る。女学校時代から作文や回覧雑誌で書いていた千代は、教員時代には同人誌『海鳥』にも参加する。
後年の千代を知る目には、錦帯橋を渡らなかったことが、自由な女性の最初の一歩に見えるかもしれない。だが、自伝に描かれているのは、父の縁談に「はい」と答え、婚家では実家のことばかり思っていた女学生の姿だ。
10日間の結婚は、恋愛遍歴の予告篇ではない。父の決めた家へ行き、橋を渡らずに帰ってきた、まだ何者でもない少女の記録である。
【参考文献】
刑部芳則『宇野千代 昭和モダニズムの伝道者』(NHK出版新書)
宇野千代『生きて行く私』(角川文庫)
1980年東京都生まれ。2005年、横浜国立大学大学院博士前期課程修了。専門紙記者を経て、22年に独立。おもな著書に『人生で大切なことは泥酔に学んだ』(左右社)がある。