たった10日で終わった最初の結婚生活
明治44(1911)年の秋、岩国。昼のように明るい月夜だったのに、仲人夫婦は火を入れた提灯を提げていた。一緒に歩くのは、まだ女学校に通う少女である。3人の影が、路上に長く落ちていた。少女の小さな荷物には、着替えの着物と学校道具しか入っていない。「自分がいま嫁入りの途中だとは、どうしても信じられなかった」。宇野千代は、最初の結婚の夜をのちにそう回想している。
朝ドラ「ブラッサム」第2週で珠が従兄のもとへ嫁ぐ場面には、実話の下敷きがある。千代自身も、女学校時代に従兄のもとへ嫁いだ。後年、彼女の結婚は回数で語られがちだが、最初の婚家にいたのは10日ほどだった。
ある日、堤を通って家へ戻る途中、駄菓子屋の店先で、千代は見知らぬ女に呼び止められた。
女は、千代が物心つく前に亡くなった生母トモの姉だと名乗り、「家は鉄砲小路、息子の亮一は岩国中学に通っている」と言った。そして声を低くして、いまのお母には言うなと付け加えた。千代は誰にも話さなかった。ところがしばらくして、父の俊次から、鉄砲小路の伯母の家へ遊びに行って来いと命じられる。
その日、伯母は桃色のリボンを千代の髪に結び、日が暮れかけると亮一に送らせた。裏門の木戸で2人は無言で別れる。千代がリボンをむしり取って家に入りかけたとき、父が不意に躍り出て、「こんな暗くなるまで男と歩いていたのか」と激高し、頬を打った。自分で行けと言った家から帰ってきた娘を打つ。理不尽だと思う前に、千代はその言葉をそのまま受け入れたと自伝に書いている。
本当に「暗い道を歩いた罰」なのか
縁談が持ち込まれたのは、それからほどなくである。父は一も二もなく承諾し、娘を呼んで告げた。お前は暗くなってから亮一と歩いて来たのだから、鉄砲小路へ嫁に行くのだと。千代の返事は「はい」だけだった。
刑部芳則の評伝『宇野千代 昭和モダニズムの伝道者』によれば、結婚は明治44年11月。千代は岩国高等女学校の2年生で14歳、藤村亮一は岩国中学5年で17歳だった。病床の父が決めた縁組に、千代が口を挟む余地はなかった。式も形式的に挙げたにすぎなかった。
では、なぜ父は結婚を決めたのか。のちに家族で話し合ったときには、「余命を悟り、生きているうちに娘の嫁ぎ先を決めておきたかったのではないか」という見方が出たと自伝にある。「暗い道を男と歩いた罰だ」という理屈を、千代自身は「架空の設定」と呼んでいる。父の本心は結局、誰にも分からなかったのである。
一言も口をきかなかった初夜
この嫁入りの夜は、若い頃の小説と晩年の自伝とで、異なる情景として描かれている。
大正14(1925)年、27歳のときに発表した小説「三千代の嫁入」(『中央公論』2月号)では、嫁入りは「暗い夜」で、花嫁はお下げ髪に瓦斯紡績の羽織姿。ひとりぼっちで連れられて行き、誰も見る者はいない。生母が嫁入りに持参した緋縮緬の下着や白綸子の重ねは、父の酒代に消えていたとも書かれている。
一方、昭和58(1983)年刊の自伝『生きて行く私』では、夜は昼のように明るい月夜になり、仲人夫婦が付き添い、3人の影が路上に落ちる。
小説と自伝という違いもあり、夜の描写だけで記憶が変わったとは言い切れない。
ただ、刑部の評伝によれば、千代は後年、自身の初期作品を偽悪的だったとして退けて、全集にも収めなかった。そして、父の血を受け継いだ自分のことも次第に受け入れていったという。ひとつの結婚が、語る時期によって別の物語になっているのがどこまでも作家らしい。
鉄砲小路の家で、伯母は心から嬉しそうに、息子の部屋に二つ並べて敷いた寝床を指さした。今夜からここで一緒に寝ることになる。だが、千代には亮一の妻になったという実感がなかった。2人は、あの夕方の帰り道と同じように、眠りにつくまで一言も口をきかなかった。まだ子供だった千代は、それでも自分の置かれた場所をおかしいとは思わなかったという。
別の女性との外泊
翌日も、その翌日も、亮一は着物を着替えて出かけ、なかなか戻らなかった。行き先は寿座という芝居小屋のそばの飲み屋だと家の雇い人が教えてくれた。伯母は息子が出かけるたび、寝間着を炬燵で温めてあると千代に言う。まだ中学生の亮一が、毎晩のように行き先も告げず外出しても、この家では誰も咎めない。評伝によれば、亮一は千代を好まず、好みの女性のもとに外泊していた。千代は亮一の日記を盗み見て、自分が嫌われていることを知ったようだ。
食卓の様子も、実家とは違っていた。食事のたびに大きな食卓を家族が囲み、食べ物を取り合っては大声で笑う。一人ずつ箱膳を前に声もなく食べる実家に比べると、それは楽しそうというより異様な光景に見え、そのたびに千代は、「いま頃うちではどうしているだろう」と思いを巡らした。婚家で千代が考えていたのは、夫のことではなく、出てきたばかりの実家のことだった。
10日ほどたった、ある日の午後である。学校の帰り、千代は鉄砲小路へ戻るために渡るはずの錦帯橋を渡らなかった。五つの反り橋を上り下りするのが厄介だったと自伝では理由ともつかない理由を書いている。ついこの間まで通っていた道を、川岸に沿って実家へ歩き、台所へ回って、低い声で継母を呼んだ。彼女は「やれ、千代さんかいの」と応じただけだった。
実家に帰った時の父の反応は…
父は、時計の間と呼ぶ部屋に床を取っていた。千代が家を出てからずっと臥せったままで、幾度も血を吐いたという。顔はこの10日でまるで変わっていた。眼窩は落ち窪み、骸骨のようだった。千代が声をかけると、父は「足を撫でてくれい」とだけ言った。「なぜ戻った」とも、「早く帰れ」とも言わなかった。
父は病気なのだ。だから、自分はこのまま実家にいてもよい。父の衰えを悲しむより、もう鉄砲小路へ帰らなくてよいことが嬉しかった。千代はそう振り返る。刑部の評伝には、このときの千代の行動を父の看病を口実に、10日ほどで実家へ戻ったと記している。
翌日、千代は父のために、三里、約12キロ離れた阿品のお大師さまへ詣でている。嫁ぎ先へ帰らなくてよいことを喜び、その翌日には父のために祈る。その両方を書き残している。婚家を逃げ出す劇的な夜も、父に頭を下げる場面もない。あるのは、橋を渡らなかった午後だけである。
結婚は、千代の女学校生活をやめなかった。嫁入りの荷物に学校道具を入れ、婚家からも通学し、学校の帰り道に実家へ戻った。千代が在籍した岩国高女の『校友会誌』によれば、この明治44年度、本科2年生の千代は「成績抜群」「本学年中精勤」の褒章を受けている。3年では校友会の役員を務めた。
まだ何者でもない少女の記録
父の俊次が57歳で亡くなったのは、大正2(1913)年2月8日。嫁入りから1年余りがたち、千代は女学校3年に在学していた。4年の校内学芸会では、同級生と「コロンブス」や「楽しき我が家」を披露した。
大正3(1914)年3月に卒業すると、翌月には川下尋常高等小学校の代用教員に採用され、月給8円を得る。女学校時代から作文や回覧雑誌で書いていた千代は、教員時代には同人誌『海鳥』にも参加する。
後年の千代を知る目には、錦帯橋を渡らなかったことが、自由な女性の最初の一歩に見えるかもしれない。だが、自伝に描かれているのは、父の縁談に「はい」と答え、婚家では実家のことばかり思っていた女学生の姿だ。
10日間の結婚は、恋愛遍歴の予告篇ではない。父の決めた家へ行き、橋を渡らずに帰ってきた、まだ何者でもない少女の記録である。
【参考文献】
刑部芳則『宇野千代 昭和モダニズムの伝道者』(NHK出版新書)
宇野千代『生きて行く私』(角川文庫)