「死」を語り合う高齢者グループ

数年前、行きつけの喫茶店で、隣のテーブルに4人の高齢男性が座ったことがある。

見たところ、会社員時代か学生時代の友人という感じではなく、互いの関係には一定の距離があった。いちばん年長の人は昭和15年生まれの80代半ばと話していた。ほかの3人は70代半ばくらいだろうか。

一人が「仕事を引退して何もやることがないので、死を待つだけの気持ちになることがある」と言うと、別の一人が「やはり生活の軸となるものがないからでしょう。私もそう思うときがある」と同意した。

もう一人の70代が「このまま死んでいくと思うとやるせなくなる」と続けた。

窓辺に置かれたクマのぬいぐるみ
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今この瞬間「生きている」実感はあるか

高齢者同士が、これほど率直に死について長時間語り合っているのを聞いたのは初めてだった。自分自身の存在がいずれ消えてしまうという事実は、やはり簡単には受け入れがたいものなのだろう。

帰り際に彼らの内の一人が横に座っていた私に「すみません、お騒がせしました」と声をかけてきた。

どういう集まりかと尋ねると、「趣味のサークルです」とのことだった。こういう会があるのなら、自分も加わりたいと思った。普段そういうことを語ることがなかったので羨ましくも感じていたのである。

「死を待つだけ」という言葉には、今この瞬間の生に対する実感の乏しさが表れている。だが、視点を変えれば、「今日」という日は、かつて誰かが心から生きたかった「明日」でもある。