最後に評伝を書いたのは「島田」
操子を見送った翌年の昭和12年(1937年)の春、木下は「島田三郎伝」の執筆を始める。島田三郎は、毎日新聞の社長として木下を紙面に迎えた人物である。大正12年(1923年)に島田が世を去ったあと、木下は『島田三郎全集』全5巻の編纂にも加わっていた。昭和12年の秋に発病し、父の死病と同じ胃がんと診断される。明治史の仕事は胃がんの進行によって中断した(『日本大百科全書』)。11月5日、東京市滝野川区西ヶ原、いまの東京都北区西ヶ原の自宅で死去。満68歳だった。
辞世として遺したのは「何一つ もたで行くこそ 故さとの 無為の国への みやげなるらし」。
何ひとつ持たずに行くことが故郷である無為の国への土産になるだろうという一首である。「無為の国」は静坐を説いた岡田虎二郎が使った言葉で、この歌は松本市城山の顕彰碑に刻まれている。合切袋ひとつを遺して死んだ田中正造の枕元に、24年前、1カ月立っていた人の歌でもある。
昭和12年、68歳で波乱の生涯を閉じる
高田の病院で看護婦に出会い、獄中でその看護婦の面会を受け、その看護婦の紹介で結婚した。師と仰いだ人の枕元に1カ月立ち、最後は自分が病床の人になった。木下尚江の生涯は、看護される側と看護する側を行き来している。ドラマが横沢とシマケンに分けて預けたのは、その前半にあたる。
もうひとつ、木下は活字から離れなかった。新聞に書き、新聞で小説を連載し、その小説を発禁にされ、それでも最後は自分を紙面に迎えた社長の伝記に取りかかった。生涯で世に出した評論・論説・小説は、のちに『木下尚江全集』全20巻にまとめられたほど膨大な量になる。活字を拾い、書評を書いていたが、小説家になることをあきらめた後は他人の手紙を運んでいたシマケンとは、そこが分かれる。島田健次郎という役名の由来は公表されていないが、木下が最後に書こうとした人物と同じ姓である。
・参考資料
松本市歴史の里「大関和と木下尚江のこと (1)(2)」(2026年8月14日)、安曇野市公式サイト「木下尚江」、国立国会図書館「近代日本人の肖像 木下尚江・田中正造」「史料にみる日本の近代 社会民主党の結成」、新宿中村屋「創業者ゆかりの人々 木下尚江・岡田虎二郎」「中村屋の歴史 明治」、佐野市「栃木県指定文化財 田中正造遺品」「同・9点」、田原市博物館「岡田虎二郎 静坐法とその思想」、川島祐一「松本にうまれし木下尚江の生涯」(『頸城野郷土資料室学術研究部研究紀要』Forum95、2022年)、同「木下尚江の『日蓮論』を読む」(同Forum109、2023年)、木下尚江「政治の破産者・田中正造」(『中央公論』1933年4月号)「臨終の田中正造」(同9月号)、鄭玹汀『木下尚江 その生涯と思想』(平凡社、2025年)、田中ひかる監修『別冊太陽 大関和 明治のナイチンゲールたち』(平凡社、2026年)、『日本大百科全書』『世界大百科事典』『日本人名大辞典』(木下尚江、島田三郎、社会民主党、大関和)、NHK「風、薫る」公式サイトおよび各話あらすじ
1973年長野県生まれ。出版社、広告制作会社勤務を経てフリーライターに。ドラマコラム執筆や著名人インタビュー多数。エンタメ、医療、教育の取材も。著書に『大切なことはみんな朝ドラが教えてくれた』(太田出版)など