「風、薫る」(NHK)では、りん(見上愛)と恋愛関係にあったシマケンこと島田健次郎(佐野晶哉)が胃がんに。りんのモチーフ、大関和の周辺人物について調べたライターの田幸和歌子さんは「シマケンのモチーフのひとりと思われる木下尚江は、田中正造を師と仰ぎ、その最期も看取った有名な社会運動家だった」という――。
木下尚江(1869~1937年)の肖像写真
木下尚江(1869~1937年)の肖像写真(写真=国立国会図書館デジタルコレクション/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

佐野晶哉演じるシマケンが胃がんに

NHK連続テレビ小説「風、薫る」(脚本・吉澤智子、原案・田中ひかる『明治のナイチンゲール 大関和物語』)の第25週「風媒花」で、りん(見上愛)と直美(上坂樹里)は、胃がんの手術を受けたシマケンこと島田健次郎(佐野晶哉)の派出看護に入る。新聞社で活字を拾い、書評を書き、連載の話が立ち消えになったところで、兄の失踪と実家の借金のために小説家の道を降りた男である。

実家を片づけておいっ子と上京し、りんと再会したときには郵便配達夫をしていると話していた。このシマケンのモチーフのひとりに、社会運動家の木下尚江(1869〜1937年)の名が挙がっている。同時に、第16週から出ている新潟の新聞記者・横沢公輔(井上祐貴)にも、木下の人物像が反映されているのでは……と言われている。高田でりんと出会い、のちに監獄につながれる横沢の筋は、木下の経歴をなぞったものだ。実在の一人が、ドラマでは二人に分けて置かれている。

その木下も、胃がんで死んだ。昭和12年(1937年)、ドラマがいま描いている明治33年から37年後のことである。

【参考記事】「風、薫る」佐野晶哉が演じるシマケンめぐる切ない史実…大関和が“獄中プロポーズ”されたのに身を引いた理由

りんのモチーフ、大関和に求婚

木下は、りんのモチーフである大関和と心を通わせ、獄中プロポーズしたが、木下の同郷の友人にして新宿中村屋の創業者・相馬愛蔵の反対で別れた。そのあと、明治33年(1900年)12月に和賀操子と結婚した。旧盛岡藩士族の娘で、和が働いていた東京看護婦会の看護婦である。仲を取り持ったのは和自身だった。結婚後、和は週に一度、木下家を訪ねて操子の教育にあたっている(松本市歴史の里「大関和と木下尚江のこと」)。一度は結婚を約束した相手の家に、妻の指導役として通ったことになる。ドラマが描いている東京府看護婦規則の布告と同じ年である。

結婚の2カ月前、木下は『廃娼之急務』を出している。前年に入社した毎日新聞(現在の毎日新聞とは異なる会社)では、廃娼論だけでなく足尾鉱毒問題でも論陣を張った。毎日新聞に入って間もなく、同社で足尾鉱毒問題を追及し、明治天皇に直訴しようとしたことで有名な田中正造(1841~1913年)と初めて顔を合わせている。

看護婦と結婚し、政治運動に打ち込む

翌明治34年(1901年)5月18日、木下は安部磯雄、片山潜、幸徳秋水こうとくしゅうすい、河上清、西川光二郎とともに日本初の社会主義政党・社会民主党を結成し、片山と二人で幹事になった。結社が禁止されたのは2日後である。翌明治35年(1902年)8月の衆院選には群馬県の前橋から立ち、落選した。明治38年(1905年)にも東京で立候補するが、官憲の圧迫が強く演説会すら開けなかった(『20世紀日本人名事典』)。日本で最初の普通選挙運動を起こしたひとりであるが、その普通選挙のない選挙で二度とも議席に届かなかった。

明治37年(1904年)1月1日、日露戦争の開戦を目前にした毎日新聞で、小説『火の柱』の連載を始める。キリスト教社会主義の立場から非戦論を織り込んだ作品で、続けて『良人の自白』も連載した。だが戦争が終わると、社会主義者の間の対立が表に出る。明治38年に平民新聞が廃刊、平民社が解散。木下は石川三四郎らとキリスト教社会主義の雑誌『新紀元』を創刊したが、これも13号で終わった。

田中正造の肖像、1913年以前
田中正造の肖像、1913年以前(写真=『鉱毒事件の真相と田中正造翁』/国立国会図書館/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

足尾銅山主の妻の自死を招いたか

明治39年(1906年)5月、母が世を去る。木下はこれを境に表舞台から降りた。同年9月に幸徳秋水と堺利彦へ決別を告げ、10月には『新紀元』に「旧友諸君に告ぐ」を発表して社会主義運動からの離脱を表明し、群馬の伊香保に移った。背景にあったのは母の死だけではない。自分の正義の訴えが政治家・星亨の暗殺や足尾銅山オーナー夫人の自殺を招いたという自責の念があったとされる(川島祐一「松本にうまれし木下尚江の生涯」「木下尚江の『日蓮論』を読む」)。人を追い詰めた側の筆として、自分の言葉を数え直したということだ。自伝的な『懺悔』を書くのも、この前後である。

明治時代(1865年ごろ)の足尾銅山
明治時代(1865年ごろ)の足尾銅山〔写真=『画報日本近代の歴史5』(三省堂)より/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

伊香保で書いた小説が『霊か肉か』(上篇・明治40年、下篇・明治41年)である。相馬愛蔵・黒光夫妻や井口喜源治が名を変えて登場することで知られるが、主人公に関わる重要な人物として、キリスト教を信仰する看護婦が出てくる。看護婦は誰に対しても兄弟姉妹の愛情をもって職分を尽くすべきで、その目に貴族も平民も富豪も貧乏人も区別はない、という信念を持つ女性である(松本市歴史の里、前掲)。大関和との結婚話が破綻してから10年近くたって、木下は自分の小説のなかに看護婦を置いている。

木下尚江『懺悔』、娼婦として売られた少女をかくまった事情や自身の結婚について書いた部分。明治40年
木下尚江『懺悔』、娼婦として売られた少女をかくまった事情や自身の結婚について書いた部分。明治40年(画像=国立国会図書館デジタルコレクション

師と仰ぐ田中正造への強い思い

運動から降りても、足尾鉱毒問題からは離れていない。明治40年(1907年)6月、遊水地にするため谷中村の家屋が強制的に破壊される。木下は現地に駆けつけ、村の最後を見届けた。その数カ月前に田中正造へ宛てて、「いま自分が師と仰いで教えを請う相手はあなたのほかにいない」という趣旨の手紙を書いている(川島、前掲)。

明治43年(1910年)、木下は岡田虎二郎の門に入る。静坐によって心身を立て直す修養法で、田中正造や坪内逍遥、後藤新平らも実践者に名を連ねた。木下はこれを、彫刻家・荻原守衛と息子を相次いで亡くし失意の中にあった相馬黒光に紹介する。黒光から夫の愛蔵へ、中村屋のアトリエにいた画家・中村つねへと広がっていった(安曇野市公式サイト「木下尚江」)。

同じ明治43年の9月、『火の柱』『良人の自白』などが発売禁止処分を受けた。幸徳秋水らが検挙された大逆事件の年である。小説の多くが発禁となり、評論も出版社に危険視されて、生前にまとめられた評論集は『飢渇』(明治40年)1冊しかない。木下は長く世間から忘れ去られていく。

大正2年(1913年)8月2日、田中正造が栃木県足利郡吾妻村下羽田、いまの佐野市下羽田町にある支援者・庭田清四郎の家で倒れた。木下は8月半ばから佐野に滞在して看病にあたる。9月4日、正造は同じ家で息を引き取った。満71歳。死因は胃がんだったとされる。遺したものはわずか。合切袋に入っていたのは河川調査の草稿、新約聖書、鼻紙数枚、採集した川海苔、小石3個、帝国憲法とマタイ伝の合本、日記3冊だった(佐野市「栃木県指定文化財 田中正造遺品」)。木下は9年後の大正11年(1922年)に『田中正造翁』を刊行した。

前列左から安部磯雄、幸徳秋水、木下尚江、片山潜
前列左から安部磯雄、幸徳秋水、木下尚江、片山潜。1901年(写真=『アサヒグラフ』1949年3月2日号/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

田中と大関和、妻にも先立たれる

昭和に入ってからの木下は、著述と思索の日々を送る。昭和4年(1929年)に『木下尚江集』全4巻を出した。昭和8年(1933年)に堺利彦が死ぬと執筆を再開し、明治史の調査に打ち込む。同じ年の『中央公論』には「政治の破産者・田中正造」と「臨終の田中正造」を発表した。正造の枕元にいた1カ月を、20年たって書いたことになる。昭和に入って出した『神 人間 自由』では、普通選挙運動で逮捕され入獄した1年半を「再生の天寵」と振り返っている(新宿中村屋「創業者ゆかりの人々」)。

昭和11年(1936年)8月1日、妻の操子が死んだ。和が紹介した妻である。和自身はその4年前、昭和7年(1932年)5月に世を去っていた。晩年の和が脳溢血で寝たきりになったとき、操子は和の好きな食べ物を作って見舞いに通っている(松本市歴史の里、前掲)。木下夫婦が結婚したときはいろいろあったが、三人の行き来は途切れなかった。

晩年の大関和
提供=医療法人知命堂病院
1919(大正8)年、61歳ごろの大関和

最後に評伝を書いたのは「島田」

操子を見送った翌年の昭和12年(1937年)の春、木下は「島田三郎伝」の執筆を始める。島田三郎は、毎日新聞の社長として木下を紙面に迎えた人物である。大正12年(1923年)に島田が世を去ったあと、木下は『島田三郎全集』全5巻の編纂にも加わっていた。昭和12年の秋に発病し、父の死病と同じ胃がんと診断される。明治史の仕事は胃がんの進行によって中断した(『日本大百科全書』)。11月5日、東京市滝野川区西ヶ原、いまの東京都北区西ヶ原の自宅で死去。満68歳だった。

毎日新聞社長から政治家になった島田三郎の肖像写真、1923年以前
毎日新聞社長から政治家になった島田三郎の肖像写真、1923年以前(写真=『近世名士写真 第2巻』より/国立国会図書館/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

辞世として遺したのは「何一つ もたで行くこそ ふるさとの 無為の国への みやげなるらし」。

何ひとつ持たずに行くことが故郷である無為の国への土産になるだろうという一首である。「無為の国」は静坐を説いた岡田虎二郎が使った言葉で、この歌は松本市城山の顕彰碑に刻まれている。合切袋ひとつを遺して死んだ田中正造の枕元に、24年前、1カ月立っていた人の歌でもある。

木下尚江の故郷・長野県松本市の街並み
写真=iStock.com/Julien Viry
木下尚江の故郷・長野県松本市の街並み

昭和12年、68歳で波乱の生涯を閉じる

高田の病院で看護婦に出会い、獄中でその看護婦の面会を受け、その看護婦の紹介で結婚した。師と仰いだ人の枕元に1カ月立ち、最後は自分が病床の人になった。木下尚江の生涯は、看護される側と看護する側を行き来している。ドラマが横沢とシマケンに分けて預けたのは、その前半にあたる。

もうひとつ、木下は活字から離れなかった。新聞に書き、新聞で小説を連載し、その小説を発禁にされ、それでも最後は自分を紙面に迎えた社長の伝記に取りかかった。生涯で世に出した評論・論説・小説は、のちに『木下尚江全集』全20巻にまとめられたほど膨大な量になる。活字を拾い、書評を書いていたが、小説家になることをあきらめた後は他人の手紙を運んでいたシマケンとは、そこが分かれる。島田健次郎という役名の由来は公表されていないが、木下が最後に書こうとした人物と同じ姓である。

・参考資料
松本市歴史の里「大関和と木下尚江のこと (1)(2)」(2026年8月14日)、安曇野市公式サイト「木下尚江」、国立国会図書館「近代日本人の肖像 木下尚江・田中正造」「史料にみる日本の近代 社会民主党の結成」、新宿中村屋「創業者ゆかりの人々 木下尚江・岡田虎二郎」「中村屋の歴史 明治」、佐野市「栃木県指定文化財 田中正造遺品」「同・9点」、田原市博物館「岡田虎二郎 静坐法とその思想」、川島祐一「松本にうまれし木下尚江の生涯」(『頸城野郷土資料室学術研究部研究紀要』Forum95、2022年)、同「木下尚江の『日蓮論』を読む」(同Forum109、2023年)、木下尚江「政治の破産者・田中正造」(『中央公論』1933年4月号)「臨終の田中正造」(同9月号)、鄭玹汀『木下尚江 その生涯と思想』(平凡社、2025年)、田中ひかる監修『別冊太陽 大関和 明治のナイチンゲールたち』(平凡社、2026年)、『日本大百科全書』『世界大百科事典』『日本人名大辞典』(木下尚江、島田三郎、社会民主党、大関和)、NHK「風、薫る」公式サイトおよび各話あらすじ