看護婦と結婚し、政治運動に打ち込む
翌明治34年(1901年)5月18日、木下は安部磯雄、片山潜、幸徳秋水、河上清、西川光二郎とともに日本初の社会主義政党・社会民主党を結成し、片山と二人で幹事になった。結社が禁止されたのは2日後である。翌明治35年(1902年)8月の衆院選には群馬県の前橋から立ち、落選した。明治38年(1905年)にも東京で立候補するが、官憲の圧迫が強く演説会すら開けなかった(『20世紀日本人名事典』)。日本で最初の普通選挙運動を起こしたひとりであるが、その普通選挙のない選挙で二度とも議席に届かなかった。
明治37年(1904年)1月1日、日露戦争の開戦を目前にした毎日新聞で、小説『火の柱』の連載を始める。キリスト教社会主義の立場から非戦論を織り込んだ作品で、続けて『良人の自白』も連載した。だが戦争が終わると、社会主義者の間の対立が表に出る。明治38年に平民新聞が廃刊、平民社が解散。木下は石川三四郎らとキリスト教社会主義の雑誌『新紀元』を創刊したが、これも13号で終わった。
足尾銅山主の妻の自死を招いたか
明治39年(1906年)5月、母が世を去る。木下はこれを境に表舞台から降りた。同年9月に幸徳秋水と堺利彦へ決別を告げ、10月には『新紀元』に「旧友諸君に告ぐ」を発表して社会主義運動からの離脱を表明し、群馬の伊香保に移った。背景にあったのは母の死だけではない。自分の正義の訴えが政治家・星亨の暗殺や足尾銅山オーナー夫人の自殺を招いたという自責の念があったとされる(川島祐一「松本にうまれし木下尚江の生涯」「木下尚江の『日蓮論』を読む」)。人を追い詰めた側の筆として、自分の言葉を数え直したということだ。自伝的な『懺悔』を書くのも、この前後である。
伊香保で書いた小説が『霊か肉か』(上篇・明治40年、下篇・明治41年)である。相馬愛蔵・黒光夫妻や井口喜源治が名を変えて登場することで知られるが、主人公に関わる重要な人物として、キリスト教を信仰する看護婦が出てくる。看護婦は誰に対しても兄弟姉妹の愛情をもって職分を尽くすべきで、その目に貴族も平民も富豪も貧乏人も区別はない、という信念を持つ女性である(松本市歴史の里、前掲)。大関和との結婚話が破綻してから10年近くたって、木下は自分の小説のなかに看護婦を置いている。