師と仰ぐ田中正造への強い思い

運動から降りても、足尾鉱毒問題からは離れていない。明治40年(1907年)6月、遊水地にするため谷中村の家屋が強制的に破壊される。木下は現地に駆けつけ、村の最後を見届けた。その数カ月前に田中正造へ宛てて、「いま自分が師と仰いで教えを請う相手はあなたのほかにいない」という趣旨の手紙を書いている(川島、前掲)。

明治43年(1910年)、木下は岡田虎二郎の門に入る。静坐によって心身を立て直す修養法で、田中正造や坪内逍遥、後藤新平らも実践者に名を連ねた。木下はこれを、彫刻家・荻原守衛と息子を相次いで亡くし失意の中にあった相馬黒光に紹介する。黒光から夫の愛蔵へ、中村屋のアトリエにいた画家・中村つねへと広がっていった(安曇野市公式サイト「木下尚江」)。

同じ明治43年の9月、『火の柱』『良人の自白』などが発売禁止処分を受けた。幸徳秋水らが検挙された大逆事件の年である。小説の多くが発禁となり、評論も出版社に危険視されて、生前にまとめられた評論集は『飢渇』(明治40年)1冊しかない。木下は長く世間から忘れ去られていく。

大正2年(1913年)8月2日、田中正造が栃木県足利郡吾妻村下羽田、いまの佐野市下羽田町にある支援者・庭田清四郎の家で倒れた。木下は8月半ばから佐野に滞在して看病にあたる。9月4日、正造は同じ家で息を引き取った。満71歳。死因は胃がんだったとされる。遺したものはわずか。合切袋に入っていたのは河川調査の草稿、新約聖書、鼻紙数枚、採集した川海苔、小石3個、帝国憲法とマタイ伝の合本、日記3冊だった(佐野市「栃木県指定文化財 田中正造遺品」)。木下は9年後の大正11年(1922年)に『田中正造翁』を刊行した。

前列左から安部磯雄、幸徳秋水、木下尚江、片山潜
前列左から安部磯雄、幸徳秋水、木下尚江、片山潜。1901年(写真=『アサヒグラフ』1949年3月2日号/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

田中と大関和、妻にも先立たれる

昭和に入ってからの木下は、著述と思索の日々を送る。昭和4年(1929年)に『木下尚江集』全4巻を出した。昭和8年(1933年)に堺利彦が死ぬと執筆を再開し、明治史の調査に打ち込む。同じ年の『中央公論』には「政治の破産者・田中正造」と「臨終の田中正造」を発表した。正造の枕元にいた1カ月を、20年たって書いたことになる。昭和に入って出した『神 人間 自由』では、普通選挙運動で逮捕され入獄した1年半を「再生の天寵」と振り返っている(新宿中村屋「創業者ゆかりの人々」)。

昭和11年(1936年)8月1日、妻の操子が死んだ。和が紹介した妻である。和自身はその4年前、昭和7年(1932年)5月に世を去っていた。晩年の和が脳溢血で寝たきりになったとき、操子は和の好きな食べ物を作って見舞いに通っている(松本市歴史の里、前掲)。木下夫婦が結婚したときはいろいろあったが、三人の行き来は途切れなかった。

晩年の大関和
提供=医療法人知命堂病院
1919(大正8)年、61歳ごろの大関和