世界で知られる日本人女性、小野洋子
2026年8月14日に草間彌生が97歳で亡くなった。海外で活躍する女性アーティストの草分けだった草間。約60年前、海外渡航自由化の前にアメリカに渡り、みずからの表現をときに過激に世界に問いかけた女性たちがいた。現在93歳の前衛芸術家・小野洋子も、そのひとりである。
「ビートルズを解散させた女」「サークルクラッシャー」――小野洋子には長らくそうしたレッテルが貼られてきた。だが彼女の歩みを辿ると、孤独と中傷に耐えながら、それでも自己を貫いたひとりの女性が見えてくる。(事実上)三回あった結婚は洋子に何をもたらし、世間の目はどう変わったのか。苦闘し続けた半生を辿る。
現在93歳、安田財閥につながる家柄
小野洋子は1933(昭和8)年2月18日、大雪の日に帝大病院で生まれた。
祖父の英二郎は日本興業銀行総裁、父の英輔は横浜正金銀行員、母の磯子は安田財閥創始者・安田善次郎の孫という上流階級の出身である。一方、父は元ピアニストであり、母は洋画家でもあるなど、芸術一家の側面もあった。
誕生時、父はサンフランシスコ支店に赴任中で、母は社交に忙しく、鎌倉の屋敷で家庭教師らに育てられた。後年、洋子は語る。「母はしょっちゅう言っていました。『おまえは、きれいなお母様を持って幸せだと思わなくちゃいけないわ』」「母はスクリーンに映る女優さんのように、いつもニッコリ笑っているのですが、何も与えてはくれませんでした」。
早熟な少女は学習院でも異彩を放った
1935(昭和10)年、サンフランシスコへ渡り、2年後に帰国。自由学園から学習院初等科へ進んだが、日米開戦を前に再び渡米する。その2年後に父の赴任でまたもや東京へ戻り、啓明学園を経て青南小学校に入学した。幼少期に日本とアメリカを頻繁に往復し、そのたびに転校する生活は、洋子に孤独と早熟をもたらした。
空襲が激しくなると、洋子と母と弟と使用人たちは軽井沢へ疎開。母の高価な装身具は食べ物に換えられた。学校では地元の子どもたちからいじめられたが、引きこもりがちになった弟に対し、勝気な洋子はむしろ生き生きしていたという。
戦後、学習院女子中等科に進んだ洋子は成績優秀で詩作なども始めた。母は「女でも、お前くらい頭が良ければ外交官にでも首相にでもなれるよ」「結婚なんてバカなことをするもんじゃない」と独立心を植えつけた。学校では英語劇やフランス語劇に出演。配役が気に入らなければ選挙をやり直させるほど自尊心が強かった。当時のあだ名は「小野氏」。同級生からは「セックス知識の披露がお好きだったわ」とも証言されている。