美大生と再婚、長女を産む
一柳との関係が破綻するなか、1962(昭和37)年に洋子は妊娠する。もとより子どもを望まない性分だったが、説得されて産む決意をし、トニーと入籍。これが二度目の結婚である。小野家はこの結婚にも激怒。マンションを追われるように二人は同じ渋谷区の格安の地域に越した。
翌年8月、娘の京子が生まれたものの、相変わらず経済状況は好転せず、夫婦喧嘩が絶えなかった。当時、遊びに行った学習院時代の同級生は、荒涼とした部屋で二人が麻雀ばかりしていたと語っている。
1964(昭和39)年7月、洋子は自費で作品集『グレープフルーツ』を刷って京都や東京公演で売り、観客が洋子の服をハサミで切る「カット・ピース」という作品を発表するなど意欲的に活動したが、返ってくるのは無視か酷評ばかりだった。秋にはトニーが京子を連れて帰米。2カ月後に洋子もアメリカに渡った。
ニューヨークでも家賃を滞納し、3カ月ごとにアパートを追われた。トニーも洋子に負けず劣らず野心的でかつ洋子の才能を信じていたので、さまざまなアイデアを出した。ふたりはギャラリスト、ライター、評論家、マスコミ関係者など、手当たり次第に売り込んだ。
ロンドンを拠点に活動、知名度がアップ
1966(昭和41)年春、トニーの発案で洋子を株として新聞広告で売り出したところ、成功。まとまった金が入ったので画廊を開いた。また、9月に招かれてロンドンに行ったところ、作品集『グレープフルーツ』が好意的に受け止められた。いくつかのパフォーマンスも話題になり、洋子は少し有名になった。ロンドンが気に入った二人は腰を落ち着けるとともに、本格的にパトロンを探し始めた。
転機が訪れたのは11月、「インディカ・ギャラリー」での展覧会でのこと。開会前の内覧会で洋子は後に三番目の夫となるジョン・レノンと出会うことになる。
なお、洋子はそれまでビートルズが誰か知らなかったとする説と、むしろ周到にジョンに接近したとする説がある。数年前に「わたしはジョンと結婚する」と宣言したとも、ギャラリーのオーナーを通じてジョンに何度も連絡をとらせたともいわれる。だが、男女の仲になったのは出会いから1年半以上あとのことだった。