「家康の首が飛ぶ!」という映画
NHKが歴史物の番組製作で苦言を呈されたのは、これがはじめてではない。昨年(2025年)8月に放送された「シミュレーション~昭和16年夏の敗戦~」では、総力戦研究所所長の陸軍軍人が史実を曲解して悪者に描かれていた。モデルとなった飯村穣の孫が、祖父の名誉が傷つけられたとNHKを訴えたのだ。
歴史物の映画・ドラマで「いくら何でもヒド過ぎる」と苦情が出たのは、1979年公開の映画『真田幸村の謀略』で「家康の首が50メートル飛ぶ!」というキャッチコピーが使われ、日光東照宮かどこか徳川家の関係者から苦情が寄せられた、なんてこともあった。信長や家康はサイコパスに描かれることが多いので、子孫たちが物申すようになったら、歴史ドラマなんか作れなくなっちゃうかもしれない。
中川清秀は裏切り者ではなかった
さて、裏切り者に描かれて、逆に注目された中川清秀(1542~1583年)は摂津(大阪府北西部+兵庫県南東部)に生まれた(山城出身とする説もある)。はじめ荒木村重の指揮下にあったが、村重が信長に対して謀反を起こすと、信長に降り、荒木攻めで武功を挙げた。荒木滅亡後、池田恒興の与力となり、山崎の合戦で羽柴・池田軍の主力として活躍。猛将として知られた。清須会議後は秀吉傘下の部将として、北近江の砦を任されたのだが、賤ヶ岳の合戦の前哨戦で討ち死にした。
ちなみに、清秀は徳川家康と同い年である。生きていれば、全く違った人生が開けていただろう。清秀の妹は古田織部の妻である。
息子は信長の娘をめとり出世するも…
信長は荒木討伐で清秀の功を感じ入り、清秀の長男・中川秀政(1568~1592年)に娘を娶せた。天正6(1578)年のことだというが、当時、秀政は満10歳。おそらく信長が婚約を命じ、本能寺の変後に婚姻というのが実態だろう。清秀死後、秀政が家督を継ぎ、摂津茨木6万石を継承した。秀吉に仕えて小牧・長久手の合戦や四国攻めに従い、播磨三木13万石に加増される。
しかし、文禄元(1592)年の朝鮮出兵で渡海し、同年10月に討ち死にした。実際は鷹狩り中に朝鮮兵に殺されたのだが、家臣が合戦中の討ち死にと秀吉に報告。ウソがばれて怒りを買い、実弟の中川秀成(1570~1612年)が家督を継いだが、6万石余に減封された(秀成は文禄の役の帰陣後に豊後岡7万4000石に転封)。