大河ドラマの“超展開”が話題に
NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」の展開が賛否両論を巻き起こしている。
史実では、賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉と柴田勝家が対立。天正11(1583)年4月16日、勝家派の織田信孝が岐阜城で挙兵したため、秀吉は美濃大垣城(岐阜県大垣市)に入った。ここで、勝家軍は秀吉の前線不在を好機と捉え、4月19日に勝家の甥・佐久間盛政が率いる8000の軍勢が、秀吉軍の中川清秀が守る大岩山、高山右近が守る岩崎山の砦を奇襲。双方の守備兵はおよそ1000だったから、中川はあえなく討ち死に。高山は敗走した。
ところが、「豊臣兄弟!」では、中川清秀が裏切って、砦に柴田勢を誘い入れるという斬新な説を展開した。一方、前田利家は勝家と雪の中で刃を交え(新暦の6月なんだけどね)、ついには戦線を離脱。勝家の本陣で中川清秀を暗殺し、羽柴陣営に着くなり、中川の首をボールのように放り投げた。
先祖の首を投げられた子孫の抗議
これに反発したのが、清秀の生地・大阪府茨木市と中川家の末裔が治めた大分県竹田市だ。
中川清秀の描かれ方が「史実と懸け離れている」として、両市は8月28日に連名でNHKに文書を送り「遺憾の念を禁じ得ない」「歴史をモチーフにした作品では、できる限り正確な史実を尊重することを願う」と伝えたという(大分合同新聞)。
【参考記事】NHK大河ドラマ、竹田市など「史実尊重を」 「豊臣兄弟!」中川清秀描写で申し入れ(大分合同新聞)
その後も、北ノ庄城の天守から勝家とお市が飛び降りるという最期を選択したことが「当時の武士の死に方としては不名誉で、ありえない」と批判された。勝家は敗戦を悟り、お市を刺殺してから、武士らしく自分の腹を切ったと伝えられている。
家康が小鳥を飼っていた逸話は…
さらに、9月6日放送の「最強のライバル」では、徳川家康の生い立ちが描かれたのだが、今川家から冷遇されたという一昔前のシチュエーションで、違和感を覚えた視聴者が少なくなかったようだ。
家康は今川家ではなく織田家の人質だった時代、黒鶇という鳥を贈られたが、他の鳥の鳴き声を真似ることを嫌って返却したという話がある(『徳川家康と其周囲(上)』)。これが、今川義元から小鳥を与えられた挙げ句に殺せと命じられ、愛玩するあまりに殺せない話にすり替わってしまっている。まるで逆なのだ。
「家康の首が飛ぶ!」という映画
NHKが歴史物の番組製作で苦言を呈されたのは、これがはじめてではない。昨年(2025年)8月に放送された「シミュレーション~昭和16年夏の敗戦~」では、総力戦研究所所長の陸軍軍人が史実を曲解して悪者に描かれていた。モデルとなった飯村穣の孫が、祖父の名誉が傷つけられたとNHKを訴えたのだ。
歴史物の映画・ドラマで「いくら何でもヒド過ぎる」と苦情が出たのは、1979年公開の映画『真田幸村の謀略』で「家康の首が50メートル飛ぶ!」というキャッチコピーが使われ、日光東照宮かどこか徳川家の関係者から苦情が寄せられた、なんてこともあった。信長や家康はサイコパスに描かれることが多いので、子孫たちが物申すようになったら、歴史ドラマなんか作れなくなっちゃうかもしれない。
中川清秀は裏切り者ではなかった
さて、裏切り者に描かれて、逆に注目された中川清秀(1542~1583年)は摂津(大阪府北西部+兵庫県南東部)に生まれた(山城出身とする説もある)。はじめ荒木村重の指揮下にあったが、村重が信長に対して謀反を起こすと、信長に降り、荒木攻めで武功を挙げた。荒木滅亡後、池田恒興の与力となり、山崎の合戦で羽柴・池田軍の主力として活躍。猛将として知られた。清須会議後は秀吉傘下の部将として、北近江の砦を任されたのだが、賤ヶ岳の合戦の前哨戦で討ち死にした。
ちなみに、清秀は徳川家康と同い年である。生きていれば、全く違った人生が開けていただろう。清秀の妹は古田織部の妻である。
息子は信長の娘をめとり出世するも…
信長は荒木討伐で清秀の功を感じ入り、清秀の長男・中川秀政(1568~1592年)に娘を娶せた。天正6(1578)年のことだというが、当時、秀政は満10歳。おそらく信長が婚約を命じ、本能寺の変後に婚姻というのが実態だろう。清秀死後、秀政が家督を継ぎ、摂津茨木6万石を継承した。秀吉に仕えて小牧・長久手の合戦や四国攻めに従い、播磨三木13万石に加増される。
しかし、文禄元(1592)年の朝鮮出兵で渡海し、同年10月に討ち死にした。実際は鷹狩り中に朝鮮兵に殺されたのだが、家臣が合戦中の討ち死にと秀吉に報告。ウソがばれて怒りを買い、実弟の中川秀成(1570~1612年)が家督を継いだが、6万石余に減封された(秀成は文禄の役の帰陣後に豊後岡7万4000石に転封)。
関ヶ原でかつての敵味方が…
秀成の妻は佐久間盛政の娘である。盛政は賤ヶ岳の合戦で父・清秀を討ち取った人物である。秀吉が盛政を捕縛して秀政・秀成兄弟に処遇を尋ねたところ、父が討ち死にしたのは戦国の世の習いであるから、盛政に恨みを持っていないと返答した。それを聞いた盛政が感じ入り、娘を嫁がせたいと懇望したのだという。
仇の娘を嫁に迎える事例といえば、秀成の姉の婚家・池田家が有名である。小牧・長久手の合戦で池田恒興が徳川軍に討たれると、秀吉は両家の仲が悪化するのを憂いて、恒興の遺児・池田輝政と家康の娘との婚姻を斡旋した。これで輝政がすっかり徳川派の急先鋒になってしまい、関ヶ原の合戦で家康方として大活躍したのだから、秀吉は浮かばれなかったに違いない。
なお、中川秀成も関ヶ原の合戦で家康方について所領を安堵されている。
江戸時代は岡藩の小大名に
岡藩(大分県)の祖・秀成から数えて5代目の中川久通(1663~1710年)の妻は、大老・酒井忠清の娘である。忠清は4代将軍・徳川家綱の大老で、下馬札近くに屋敷があったことから「下馬将軍」と呼ばれ、絶大な権勢を振るった。なぜそんな大物の娘が嫁いできたのかといえば、祖父の中川久清が忠清と従兄弟だったからだろう。
久通の子、6代・中川久忠(1697~1742年)には子がなかった。大名家の家系が途絶えそうになった時、①同じ血縁の一門から養子を迎えるケースと、②大大名や幕閣の有力家系から養子を迎えるケースがある。
中川家の血は途絶えたが…
たとえば、マンガ『センゴク』で有名な仙石秀久の仙石家、大河ドラマ「功名が辻」(NHK)で有名な山内一豊の山内家、「豊臣兄弟!」(NHK)で有名になった藤堂高虎の藤堂家はいずれも①一門の家老家から養子を迎えている。一方、中川家は②を選び、大藩・安芸広島藩主の浅野綱長の四男・中川久慶(1708~1743)を養子に迎えた。羽柴秀吉の義弟・浅野長吉(のち長政)の子孫にあたる。久通の姉の夫が綱長の従兄弟にあたるので、この養子縁組に繋がったのではないか。
その久慶にも子がなく、老中・松平信祝の次男、中川久貞(1724~1790年)を養子に迎えた。信祝の妻が酒井忠清の養孫にあたるので、その縁から養子縁組みが打診されたのではないか。信祝は、「知恵伊豆」の通称で名高い松平伊豆守信綱の末裔で、代々老中を務める譜代の名門なので、中川家としては「うまくやった」と思ったに違いない。
養子に次ぐ養子で御家存続
久貞の孫・中川久持(1771~1798年)はわずか28歳で死去したため(実際は23歳らしい)、子がなく、大和郡山藩主・柳沢保光の五男、中川久貴(1787~1824)を養子とした。5代将軍・綱吉の側用人、柳沢吉保の末裔で、保光は松平信祝の義理の孫にあたるので、動員されたのだろうか。
その久貴にも子がなく、近江彦根藩主・井伊直中の七男、中川久教(1800~1840年)を養子に迎えた。久教は大老・井伊直弼の異母兄にあたり、祖父・井伊直幸も大老という譜代の名門である。久貴の又従姉妹が久教の義理の叔母にあたるので、そのあたりから話が進んだのかもしれない。
その久教にも子がなく、伊勢津藩主・藤堂高兌の次男、中川久昭(1820~1889)を養子に迎えた。高兌の父・藤堂高嶷が8代・中川久貞の女婿だったから、その縁で養子縁組が進んだのではないか。
明治維新以降も伯爵家となった
久昭は幕末の藩主で、徳川シンパの藤堂家からの養子だったこともあり、藩内の尊皇派を排除したが、結局、尊皇派の勢いを抑えることはできず、藩論は早くに尊皇攘夷で固まった。王政復古の大号令の際に出兵することが遅れ、明治2(1869)年2月に謹慎を命ぜられるが、尊皇派の家臣が奔走して処分は取り下げられる。同年6月の版籍奉還で知藩事に任じられるが、9月に子の中川久成(1850~1897年)に家督を譲った。
久成は華族令公布で伯爵に列したが、やっぱり子がなく、安芸広島藩・浅野家の分家筋である浅野懋績の八男・中川久任(1871~1935)を養子に迎えた。ここまでの養子には、何らかの姻戚関係が存在していたが、このケースでは見つからなかった。婚姻関係ではなく、純粋に家格で決めた養子縁組なのだろう。
久任の孫・中川久定(1931~2017)はフランス文学の著名学者で、京都大学文学部学部長を務め、勲二等瑞宝章を授与されている。中川家の歴史で、この人が一番出世したのかもしれない。