家父長制の下、苦しんだ女性たち
『不如帰』が売れた理由は、捨松への悪意ではなく時代のほうにある。連載開始の4カ月あまり前、明治31年7月16日に明治民法の親族編と相続編が施行された。家の制度が法として固まった年である。離婚の多くは協議で決まり、判断するのは家と家だった。「悪疾あれば去る」という七去の理屈も、人々の頭に残っていた。
大岡昇平は浪子の嘆きを、夫が一方的に縁を切ることができた古い離婚制度への反抗として読んでいる(『日本の文学5』中央公論社)。猪野謙二は、同じ病に倒れた紡績・製糸の女工たちにまで同情が広がったという見方を紹介した。昭和2年(1927年)までに、民友社版だけで192版、50万部を売り尽くしたという(猪野謙二著『明治文学史 下』講談社)。
演劇にもなり、悪いイメージが広がる
小説は舞台にも移された。明治34年(1901年)2月、大阪の朝日座で並木萍水の脚色により新派が初演。明治41年(1908年)4月には本郷座で柳川春葉の脚色版を喜多村緑郎が演じ、新派悲劇の当り狂言となった。作品が繰り返されるほど、悪役の継母の像も広がっていく。久野明子は、人と違う経験を持つ女性への風当たりの強さをこの騒動で捨松が思い知らされ、傷は晩年まで残ったと書いている(久野明子著、前掲書)。
小説の外では、別の時間も流れていた。日本銀行総裁だった弥太郎は、信子の妹・留子の嫁ぎ先を訪ね、信子の形見だといってダイヤの指輪を置いていった。離縁のとき、信子が女中に託して弥太郎に届けさせたものである。三島家に敵討ちでもしたいと思っていた留子の気持ちは、これでだいぶほぐれたという。