「意地悪な継母」に描かれたが…
蘆花はこうした事情をほとんど調べていない。中野好夫は、福家未亡人の話を聞いたあと素材を取材した形跡は見あたらないと指摘する(中野好夫著『蘆花徳富健次郎』筑摩書房)。小説の中で、浪子は姑と継母の二人に痛めつけられる。中野はこの造形を「善人帳」「悪人帳」の手口と呼んだ。姑のお慶は三島和歌子、継母の繁子は捨松。読者はすぐに現実の二人を重ねた。アメリカ帰りで英語を操る後妻という立場は、それだけで反感を集めやすかった。
だが、冷たい継母という役どころを負わされた捨松は、実際には日本の看護の草分けの一人である。日本初の女子留学生のひとりとしてアメリカに渡り、看護婦養成学校で訓練を受け、看護師の資格を得ている。明治17年(1884年)に鹿鳴館で開いたチャリティバザーの収益は、日本初の看護婦教育機関である有志共立東京病院看護婦教育所の設立資金になった。
義理の娘の看病中に、事故で早産
信子は幼いころから病気がちで、捨松はその看護を引き受けてきた。鹿鳴館時代が終わった明治20年(1887年)の暮れ、吸入器を使って看病していたところ、それが突然爆発する。ショックで妊娠中だった捨松は早産し、その子は2日後に死んだ(久野明子著『鹿鳴館の貴婦人 大山捨松』中央公論社)。
離縁されて戻った信子を離れに住まわせ、食器や衣類を分けて消毒させたのも、看護の知識に基づく処置である。だが「結核が人から人へうつる」という理解が行き渡っていない時代、隔離は冷たさとしか映らない。皮肉なのは、三島家側で信子を診たとされる高木兼寛が、捨松が看護婦養成を説いた相手その人だったことだ。バザーの収益を受け取り、その教育所を立ち上げた創設者である。