「意地悪な継母」に描かれたが…

蘆花はこうした事情をほとんど調べていない。中野好夫は、福家未亡人の話を聞いたあと素材を取材した形跡は見あたらないと指摘する(中野好夫著『蘆花徳富健次郎』筑摩書房)。小説の中で、浪子は姑と継母の二人に痛めつけられる。中野はこの造形を「善人帳」「悪人帳」の手口と呼んだ。姑のお慶は三島和歌子、継母の繁子は捨松。読者はすぐに現実の二人を重ねた。アメリカ帰りで英語を操る後妻という立場は、それだけで反感を集めやすかった。

徳冨蘆花の写真、1920年撮影
徳冨蘆花の写真、1920年撮影〔写真=今田哲夫『徳富蘆花』(市ケ谷出版社)より/国立国会図書館デジタルコレクション/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons〕

だが、冷たい継母という役どころを負わされた捨松は、実際には日本の看護の草分けの一人である。日本初の女子留学生のひとりとしてアメリカに渡り、看護婦養成学校で訓練を受け、看護師の資格を得ている。明治17年(1884年)に鹿鳴館で開いたチャリティバザーの収益は、日本初の看護婦教育機関である有志共立東京病院看護婦教育所の設立資金になった。