「風、薫る」(NHK)に多部未華子が演じる公爵夫人の大山捨松が再登場。ライターの田幸和歌子さんは「捨松はアメリカで看護を学び、日本にも看護婦を根付かせるため尽力したが、自身は50万部売れた小説で悪く描かれ、傷ついていた」という――。
大山捨松の写真(影山智洋所蔵)、1919年以前撮影
大山捨松の写真(影山智洋所蔵)、1919年以前撮影〔写真=『カメラが撮らえた幕末・明治・大正の美女』(ビジュアル選書)より/PD US expired/Wikimedia Commons

史実に沿った大山捨松の描写

NHK連続テレビ小説「風、薫る」(脚本・吉澤智子、原案・田中ひかる著『明治のナイチンゲール 大関和物語』)に登場する大山いわお陸軍大臣の妻・大山捨松すてまつ(多部未華子)は、一ノ瀬りん(見上愛)と大家直美(上坂樹里)の人生を大きく動かす存在として描かれている。りんと直美は大関和おおぜきちかと鈴木まさをモチーフとする架空の人物だが、ドラマは捨松を実名のまま、その物語の中に置いた。

捨松の夫であり陸軍大臣だった大山巌、日露戦争時、1904年
捨松の夫であり陸軍大臣だった大山巌、日露戦争時、1904年〔写真=『The Russo-Japanese War』(P. F. Collier & Son)/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

実在の人物が物語の素材にされること自体は珍しくない。だが捨松は、明治のベストセラー小説『不如帰ほととぎす』に素材として使われた末、「意地悪な継母」という像を負わされ、死の直前までそれに苦しめられた。

8月24日からの第22週「明るい未来」では、日清戦争が開戦。広島の病院で軍人の看護に苦戦する多江(生田絵梨花)の手紙がりんたちに届き、日本における正式な看護婦(トレインド・ナース)の育成をバックアップしてきた捨松も動き出す。史実の捨松も日本赤十字社篤志看護婦人会の理事を務め、戦時の救護に関わる立場にいた。この戦争をはさむ時期、大山家では、大山巌と先妻の長女、捨松にとっては継娘の信子が、婚家から離縁され帰ってきている。その小説の材料になった出来事である。

徳冨蘆花が捨松をモデルに書いた

明治31年(1898年)の夏、逗子。作家の徳冨蘆花とくとみろかと妻・愛子が借りていた宿の隣室に、福家安子という未亡人が滞在した。亡夫が大山巌の副官を務めていた縁で、話は大山家の内情に及ぶ。巌の長女・信子が子爵三島家から肺結核を理由に離縁されたこと、夫の三島弥太郎が悲しんだこと、怒った巌が娘を引き取って邸内に静養室を建てたこと、信子が死んだとき三島家から届いた葬儀の生花を突き返したこと。蘆花夫妻は暗くなるまで聞いた。

捨松の義理の娘・信子の夫だった三島弥太郎(子爵)の写真、1919年以前
捨松の義理の娘・信子の夫だった三島弥太郎(子爵)の写真、1919年以前〔写真=『明治おもしろ博覧会』(西日本新聞社)より/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons
徳冨蘆花『不如帰』初版本、1889年
徳冨蘆花『不如帰』初版本、1889年(写真=PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

やがて安子が、信子の臨終の言葉を伝えた。「もうもう二度と女になんか生れはしない」。その言葉を聞いた蘆花は、このとき「小説だ」と心の中で叫んだという(徳冨愛子述・神崎清記「蘆花と共に」明治文學全集42『徳冨蘆花集』筑摩書房)。当時の蘆花は、兄・蘇峰が創設した民友社で芽の出ない一社員だった。同年11月29日、国民新聞で『不如帰』の連載が始まる。

ところが、実際の経緯は、小説とはかなり違う。信子と弥太郎が結婚したのは明治26年(1893年)4月、離縁はその2年ほどのちである。神崎清の調査によれば、縁談の際、大山家の主治医だった陸軍軍医・橋本綱常は病気などないと断言していた。ところが結婚後まもなく咳が続き、三島家側の高木兼寛が進行した肺結核と診断する。陸軍と海軍で見立てが食い違い、怒った巌が信子を引き取って三島家に返さなかった。もつれの根はそこにある(『座談会明治文学史』岩波書店)。

「意地悪な継母」に描かれたが…

蘆花はこうした事情をほとんど調べていない。中野好夫は、福家未亡人の話を聞いたあと素材を取材した形跡は見あたらないと指摘する(中野好夫著『蘆花徳富健次郎』筑摩書房)。小説の中で、浪子は姑と継母の二人に痛めつけられる。中野はこの造形を「善人帳」「悪人帳」の手口と呼んだ。姑のお慶は三島和歌子、継母の繁子は捨松。読者はすぐに現実の二人を重ねた。アメリカ帰りで英語を操る後妻という立場は、それだけで反感を集めやすかった。

徳冨蘆花の写真、1920年撮影
徳冨蘆花の写真、1920年撮影〔写真=今田哲夫『徳富蘆花』(市ケ谷出版社)より/国立国会図書館デジタルコレクション/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

だが、冷たい継母という役どころを負わされた捨松は、実際には日本の看護の草分けの一人である。日本初の女子留学生のひとりとしてアメリカに渡り、看護婦養成学校で訓練を受け、看護師の資格を得ている。明治17年(1884年)に鹿鳴館で開いたチャリティバザーの収益は、日本初の看護婦教育機関である有志共立東京病院看護婦教育所の設立資金になった。

ヴァッサー大学在学中の山川捨松。1877~81年撮影
ヴァッサー大学在学中の山川捨松。1877~81年撮影(写真=PD US/Wikimedia Commons

義理の娘の看病中に、事故で早産

信子は幼いころから病気がちで、捨松はその看護を引き受けてきた。鹿鳴館時代が終わった明治20年(1887年)の暮れ、吸入器を使って看病していたところ、それが突然爆発する。ショックで妊娠中だった捨松は早産し、その子は2日後に死んだ(久野明子著『鹿鳴館の貴婦人 大山捨松』中央公論社)。

アメリカ留学から戻り帰国報告をしたときの山川捨松、1882年
アメリカ留学から戻り帰国報告をしたときの山川捨松、1882年(写真=ヴァッサー大学サイトより/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

離縁されて戻った信子を離れに住まわせ、食器や衣類を分けて消毒させたのも、看護の知識に基づく処置である。だが「結核が人から人へうつる」という理解が行き渡っていない時代、隔離は冷たさとしか映らない。皮肉なのは、三島家側で信子を診たとされる高木兼寛が、捨松が看護婦養成を説いた相手その人だったことだ。バザーの収益を受け取り、その教育所を立ち上げた創設者である。

家父長制の下、苦しんだ女性たち

『不如帰』が売れた理由は、捨松への悪意ではなく時代のほうにある。連載開始の4カ月あまり前、明治31年7月16日に明治民法の親族編と相続編が施行された。家の制度が法として固まった年である。離婚の多くは協議で決まり、判断するのは家と家だった。「悪疾あくしつあれば去る」という七去の理屈も、人々の頭に残っていた。

黒田清輝による『不如帰』の口絵原画「浪子像」、1900年
黒田清輝による『不如帰』の口絵原画「浪子像」、1900年(写真=「蘆花記念館パンフレット」東京都公園協会/PD-Japan/Wikimedia Commons

大岡昇平は浪子の嘆きを、夫が一方的に縁を切ることができた古い離婚制度への反抗として読んでいる(『日本の文学5』中央公論社)。猪野謙二は、同じ病に倒れた紡績・製糸の女工たちにまで同情が広がったという見方を紹介した。昭和2年(1927年)までに、民友社版だけで192版、50万部を売り尽くしたという(猪野謙二著『明治文学史 下』講談社)。

演劇にもなり、悪いイメージが広がる

小説は舞台にも移された。明治34年(1901年)2月、大阪の朝日座で並木萍水の脚色により新派が初演。明治41年(1908年)4月には本郷座で柳川春葉の脚色版を喜多村緑郎が演じ、新派悲劇の当り狂言となった。作品が繰り返されるほど、悪役の継母の像も広がっていく。久野明子は、人と違う経験を持つ女性への風当たりの強さをこの騒動で捨松が思い知らされ、傷は晩年まで残ったと書いている(久野明子著、前掲書)。

晩年の大山捨松、1919年以前
晩年の大山捨松、1919年以前(写真=ヴァッサー大学サイトより/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

小説の外では、別の時間も流れていた。日本銀行総裁だった弥太郎は、信子の妹・留子の嫁ぎ先を訪ね、信子の形見だといってダイヤの指輪を置いていった。離縁のとき、信子が女中に託して弥太郎に届けさせたものである。三島家に敵討ちでもしたいと思っていた留子の気持ちは、これでだいぶほぐれたという。

ウケるための創作と認めた蘆花

大正8年(1919年)の冬、雑誌『婦女界』に「不如帰の真相」が載った。蘆花は両家の内情を説明したうえで、「姑と継母を悪者にしなければ人の涙をそそれないから誇張したのだ」と明かし、存命の二人が気の毒でならないと結んだ。連載から20年が過ぎていた。だが、捨松個人への謝罪はなかった。記事を涙ながらに読んだ捨松は、次男の嫁に、「信子がこの苦しみを知ったなら身の置き所もなかっただろう」と語ったという(久野明子著、前掲書)。

同年2月18日、捨松はスペイン風邪により満58歳で世を去る。弥太郎もその17日後に死去した。

大山巌・捨松夫妻、19126年以前
大山巌・捨松夫妻、1916年以前(写真=PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

物語は人を救う。『不如帰』は家の制度に押しつぶされる女性の姿を広く知らせ、その一点では先駆的な作品だった。だが物語は人を上書きもする。日本に看護婦教育の道を開いた女性は、その知識ゆえに、50万部の書物の中で意地悪な継母であり続けた。連載開始から127年がたち、「風、薫る」は捨松を、不当な誤解から解き放つ形でもう一度描いているのだ。