雅は士族の娘、20歳ごろに結婚

軍人の妻となった雅は、良光の任地を追って暮らした。京都の伏見や大津で新婚の日々を送り、明治13年(1880年)に良光が戸山学校の教官となって上京。翌明治14年、仙台鎮台の後備軍司令官を命じられた良光とともに仙台へ移る。この間に、雅は一男一女を産んでいる。

その良光が、明治16年(1883年)、赴任先の仙台で世を去る。歩兵少佐従六位勲四等(死因は資料により病没とも、戦傷の悪化ともいわれる)。20代半ばで、雅は二人の子を抱える寡婦となった。同期の大関和もまた、夫との離別で二児を抱えるシングルマザーだった。似た境遇の二人が、のちに看護の道でともに歩むことになる。

結婚後数年で夫が早世した

夫の死は、雅を看護へ向かわせたきっかけと伝えられる。「もし自分に看護の知識があったら」との悔いから看護を志したという(毎日新聞出版『Newsがわかる特別編 大関和がわかる』)。夫を看取れなかった痛みが、専門的な看護を学ぶ動機になった。

明治19年(1886年)、雅は桜井女学校附属看護婦養成所へ一期生として入学する。ここで大関和と出会い、講師として来日していたアグネス・ヴェッチ(バーンズ先生のモチーフと思われる)から看護学を学んだ。英語に長けていた雅は、ヴェッチの通訳も務めたという。卒業後、内科の初代看病婦取締(看護師長)となった雅と、外科の初代取締となった和は、帝国大学医科大学附属第一医院でも肩を並べた。

左から鈴木雅、アグネス・ヴェッチ、大関和
写真提供=医療法人知命堂病院
左から鈴木雅、アグネス・ヴェッチ、大関和

雅の人生には、アメリカという国が近づいた瞬間がある。桜井女学校を実質的に経営した宣教師マリア・T・ツルー(メアリーのモチーフと思われる)が、病気療養のため帰国することになり、英語堪能な雅がその付き添いに選ばれた。船中でツルーを看護しながら、渡米して最新の看護学を学ぶつもりでいたのだ。ところが明治24年(1891年)、渡航直前に人力車の事故に遭って断念する(横浜での乗船直前に熱病にかかったとする資料もある)。