「風、薫る」(NHK)では直美(上坂樹里)が求婚してきた陸軍軍曹と結ばれる。朝ドラに詳しい田幸和歌子さんは「ドラマでは直美が孤児の設定だったためか、看護婦になった後に結婚したが、モチーフの鈴木雅さんは若くして結婚し出産した後に看護婦になった」という――。
鈴木雅の写真
写真提供=医療法人知命堂病院
鈴木雅の写真

実母と再会、死別した直美が…

NHK連続テレビ小説「風、薫る」(脚本・吉澤智子、原案・田中ひかる『明治のナイチンゲール 大関和物語』)の主人公のひとり、看護婦の大家直美(上坂樹里)は孤児として育ち、自分を捨てた元遊女の母親を探してきた。顔も憶えていない母親に対面するのをあきらめた頃、看護婦仲間で親友の一ノ瀬りん(見上愛)が世話になっている「瑞穂屋」の店員・柳川文(内田慈)が、実母だと判明。しかし、その直後、文は病でこの世を去ってしまうというせつない展開があった。

そんな直美が第100話でひとつの節目を迎えた。陸軍軍曹・小川吾郎(甲斐翔真)のプロポーズを受けたのだ。

これまで直美に思いを寄せてきた男は、ほかにもいた。帝都医大病院外科の助教授・藤田邦夫(坂口涼太郎)は直美に弱く、鹿鳴館で働いていた頃に海軍中尉を装って近づいてきた寛太(藤原季節)は、その正体こそ詐欺師だったが、みなしご同士という境遇から直美と距離を縮め、母親探しにも手を貸してきた。

それでも直美が選ぶのは、そのどちらでもない。友人の見舞いで病院に来ていたはずが、直美の働きぶりに打たれ、会いに通うようになった小川である。看護婦として立つ直美の姿そのものが、二人を結びつけた。

派出看護婦会を立ち上げた鈴木雅

直美のモチーフは、大関和(りんのモチーフ)と同じ、桜井女学校附属看護婦養成所の一期生だった鈴木雅(1857〜1940年)である。日本で初めて民間経営の派出看護婦会を立ち上げた人物だ。ドラマの直美が孤児として育った設定なのに対し、史実の雅は結婚し、二人の子を産み、若くして夫を失った女性だった。結婚も出産も、看護に進む前に経験している。

雅は安政4年(1857年)、のちに静岡県士族となる加藤信盛の長女として生まれた。父は幕末の動乱を旧幕府方として戦い、五稜郭まで転戦して生き延びた武士である。雅は明治9年(1876年)から翌年にかけて、横浜のフェリス・セミナリー(現・フェリス女学院)で英語を学んだとされる。明治11年(1878年)、20歳そこそこで結婚。相手は、西南戦争で大阪鎮台歩兵第九連隊第二大隊の大隊長を務めた鈴木良光、陸軍の歩兵少佐である。

雅は士族の娘、20歳ごろに結婚

軍人の妻となった雅は、良光の任地を追って暮らした。京都の伏見や大津で新婚の日々を送り、明治13年(1880年)に良光が戸山学校の教官となって上京。翌明治14年、仙台鎮台の後備軍司令官を命じられた良光とともに仙台へ移る。この間に、雅は一男一女を産んでいる。

その良光が、明治16年(1883年)、赴任先の仙台で世を去る。歩兵少佐従六位勲四等(死因は資料により病没とも、戦傷の悪化ともいわれる)。20代半ばで、雅は二人の子を抱える寡婦となった。同期の大関和もまた、夫との離別で二児を抱えるシングルマザーだった。似た境遇の二人が、のちに看護の道でともに歩むことになる。

結婚後数年で夫が早世した

夫の死は、雅を看護へ向かわせたきっかけと伝えられる。「もし自分に看護の知識があったら」との悔いから看護を志したという(毎日新聞出版『Newsがわかる特別編 大関和がわかる』)。夫を看取れなかった痛みが、専門的な看護を学ぶ動機になった。

明治19年(1886年)、雅は桜井女学校附属看護婦養成所へ一期生として入学する。ここで大関和と出会い、講師として来日していたアグネス・ヴェッチ(バーンズ先生のモチーフと思われる)から看護学を学んだ。英語に長けていた雅は、ヴェッチの通訳も務めたという。卒業後、内科の初代看病婦取締(看護師長)となった雅と、外科の初代取締となった和は、帝国大学医科大学附属第一医院でも肩を並べた。

左から鈴木雅、アグネス・ヴェッチ、大関和
写真提供=医療法人知命堂病院
左から鈴木雅、アグネス・ヴェッチ、大関和

雅の人生には、アメリカという国が近づいた瞬間がある。桜井女学校を実質的に経営した宣教師マリア・T・ツルー(メアリーのモチーフと思われる)が、病気療養のため帰国することになり、英語堪能な雅がその付き添いに選ばれた。船中でツルーを看護しながら、渡米して最新の看護学を学ぶつもりでいたのだ。ところが明治24年(1891年)、渡航直前に人力車の事故に遭って断念する(横浜での乗船直前に熱病にかかったとする資料もある)。

北里柴三郎らに相談し、起業

そして同年11月、東京・本郷に「慈善看護婦会」の看板を掲げた。北里柴三郎や高木兼寛にも相談して踏み切ったこの会は、民間経営の派出看護婦会としては日本で初めてといわれる。のちに「東京看護婦会」と改称し、講習所も設けた。高田から東京へ戻った和も、この会に加わっている。

「慈善」を掲げた会だが、雅の目は現実を見ていた。看護婦の等級ごとに一日の看護料を定める一方、貧しい病人には無料で看護をあてる。上流の家庭で広まりつつあった派出看護を、庶民の手にも届かせようとしたのだ。看護婦への雑用依頼を禁じ、重病人につく際の休息を確保する規則も設けた。

りんのモチーフ、大関和との絆

クリスチャンだった和が慈善と献身の心を前面に立てたのに対し、信仰を持たなかった雅は、看護を確かな技術に裏づけられた職業として、正当な対価とともに世に根づかせようとした。理念は違っても、女性が自立し、看護婦の地位を上げるという志は同じで、二人は生涯の盟友だった。看護婦会を営むかたわら、雅は日本初の公許女医・荻野吟子らと大日本婦人衛生会を組織し、『婦人衛生雑誌』を通じて衛生知識の普及にも力を注いでいる。

大関和の秋田時代
写真提供=医療法人知命堂病院
大関和の秋田時代

看護婦会を和に譲り、40代で引退

明治34年(1901年)、雅は東京看護婦会の経営を和に引き継ぎ、40代半ばで第一線を退いた。病気がちの息子のそばにいたいという家庭の事情からだったという。晩年は息子とともに京都で暮らし、のちに静岡・沼津へ移っている。看護に入る扉を開いたのは夫の死であり、そこから退く理由になったのも、その夫との間に生まれた子どもだった。

ここでドラマの直美を見ると、雅とは順序が逆であることに気づく。孤児として育った直美には、雅にとっての良光のような「先に失った夫」がいない。まず看護婦として自分の足で立ち、その仕事ぶりに惹かれてやってきたのが小川である。雅にとって結婚は看護の前に、直美にとっては看護の後に訪れる。

二人の相手には、共通点もある。ともに軍人だという点だ。雅の夫・良光は西南戦争を戦った歩兵少佐、小川は近衛歩兵第三聯(連)隊の二等軍曹という設定である。将校の妻として任地を転々とした雅に対し、直美が結ばれた小川は、位の低い若い軍曹だ。見合いや家柄ではなく、働く女性への敬意から始まる関係である点も、親が決めた縁組が当たり前だった時代にあって際立っている。

朝ドラは現代的な女性像にアレンジ

そもそも直美と小川の出会いは、良いものではなかった。友人の見舞いに来た小川が、療養中の相手に“ぼた餅”を差し入れようとし、看護婦取締の直美がそれを取り上げて制したことから口論になる。第一印象は悪かったと言って良い。そこから小川が直美の仕事ぶりに一目置くようになり、想いを伝えるに至る。相手の機嫌より患者の体を優先して一歩も引かない直美の姿勢が衝突を生み、その姿勢が小川の心を動かした。

明治の女性にとって、結婚と職業は両立しにくいものだった。雅は家庭を持ち、それを失ったうえで看護を選び、看護婦という仕事そのものを自立した職業へと押し上げていった。まず職業人として立ち、そのうえで結婚へ踏み出そうとする直美の歩みは、雅が切り開こうとしたその先にある。どちらの生き方が幸福かという話ではない。時代の制約のなかで、女性が仕事と家庭のあいだをどう歩いたのか。その違いが、モチーフとドラマの人物のあいだに表れている。

プロポーズを受ける直美が、その先にどんな暮らしを選ぶのか。看護の仕事を続けるのか、家庭に入るのか。雅がたどった道のりを知っておくと、直美がこれから歩む道の意味も違って見えてくる。二人の結婚が描く対比を、これからも見届けたい。

・参考資料
「大関和」を通して見た日本の近代看護』、『近代看護の先駆者「明治のナイチンゲール 大関和」』展示図録(大田原市那須与一伝承館)、別冊太陽『大関和』、毎日新聞出版『Newsがわかる特別編 大関和がわかる』、メディアソフト『朝ドラ「風、薫る」がもっと楽しくなる! 大関和と鈴木雅の人生』、日本看護歴史学会、女子学院中学校・高等学校公式サイト、婦人公論.jp「2026年春朝ドラ『風、薫る』のヒロインモチーフ・大関和」、NHK「風、薫る」公式サイトおよび各話あらすじ