絶体絶命のピンチ、芸は身を助く
意外に知られていないが、天下分け目の合戦は関ヶ原だけで行われていたわけではない。日本各地で毛利・石田勢と徳川勢の合戦が行われていた。その一つが丹後田辺城(京都府舞鶴市)の攻防である。
当時、細川(実際は長岡)家は田辺城を居城としていた。そこに籠もる細川幽斎(藤孝)を、毛利・石田勢1万5000の兵が包囲した。守兵はわずか500。絶体絶命のピンチである。ここで意外なところから幽斎の支援が訪れる。後陽成天皇が講和の勅令を発し、幽斎の助命を嘆願したのだ。それは幽斎が当時唯一の「古今伝授」の伝承者だったからだ。
『古今和歌集』の読み方・解釈などの秘事は、藤原定家以来、代々口伝で継承されており、幽斎は元亀2(1572)年に三条西実澄から伝授されている。幽斎が八条宮智仁親王(後陽成天皇の弟)に古今伝授している最中に関ヶ原の合戦が始まり、継承が中断されてしまったので、後陽成天皇はその途絶を恐れたのである。