なぜ細川家の家紋が変わった?

細川家が家紋・九曜紋を使うようになった契機としておもしろい逸話が残っている。ある日、藤孝は九曜紋を付けた衣装で登城し、信長から「変わった紋様をつけておるな」と声を掛けられる。すると、藤孝は黙って信長の脇差しを指さした。そのつばに九曜紋が彫ってあったのだ。信長は藤孝の観察力とユーモアに感じ入り、以後、藤孝は九曜紋を家紋として用いるようになったという。

家紋「九曜」
家紋「九曜」(作成者=WTCA/PD-self/Wikimedia Commons

光秀は細川父子の加勢を期待

そして、天正10(1582)年6月2日、本能寺の変が起きると、光秀の申し出を拒絶して中立を保ち、豊臣政権下の大名として存続した。

藤孝は、個人としては「資格マニア」で万能選手だったが、指揮官としての評価はそんなに高くなかったらしい(丹羽長秀タイプだ)。しかし、嫡男・細川忠興は強気で荒武者。信長から直接感状をもらうほど評価が高かった(信長自筆の書状は数件しか残っておらず、その一つがその感状だという)。

豊臣から徳川へシフト、ガラシャは…

慶長3(1598)年8月、豊臣秀吉が死去すると、豊臣政権で武断派と文治派の対立が露わになる。細川忠興(当時は長岡忠興、もしくは羽柴忠興)は武断派の有力大名として、石田三成襲撃の七将の一人に数えられた。

慶長5(1600)年7月21日、石田三成らは大坂城下に住まう武将の妻子を人質にとって味方に引き入れる策を用いた。ところが、忠興夫人・玉(細川ガラシャ)はこれを拒否して自刃した(玉はキリシタンなので、自害は許されず、実際は家臣・小笠原少斎に自分を殺害するように命じた)。玉の自刃により、三成は人質作成を断念せざるを得なくなった。9月15日の関ヶ原の合戦では、忠興はもちろん家康方に付いた。

京都府長岡京市にある細川ガラシャ・忠興像
写真=Photolibrary/古都
京都府長岡京市にある細川ガラシャ・忠興像