信長のスパイ・細川藤孝
覚慶は三好方に幽閉されていたが、藤孝は計略を用いて救出に成功。義昭の逃亡に付き従い、義昭上洛のために奔走した。義昭が信長に上洛の支援を要請した時、藤孝が使者として尾張に赴いている。「豊臣兄弟!」では明智光秀が義昭の寵臣として描かれているが、実際に義昭第一の側近といえば、細川藤孝だったのだ。
ところが、義昭と信長の間に溝ができると、なんと藤孝は信長の側につく。反信長派の上野秀政と対立して、鹿ヶ谷に蟄居して義昭と距離を置いたのだ。
元亀4(1573)年2月13日に義昭が挙兵。藤孝は岐阜の信長に畿内の状況を詳細に報告。2月23日、26日、29日、3月7日には信長から返信が来ている(『織田信長文書の研究 上巻』)。極めて頻繁なやりとりで、藤孝はマメで、しかも報告が上手だったらしい。信長と藤孝は同年齢で誕生日も近い(藤孝は4月22日、信長は5月11日生まれ[諸説あり])、午年だけに"馬が合った"のかも知れない。
信長に乗りかえ、義昭を謝絶
義昭挙兵に瀕し、細川藤孝は終始信長に付き、畿内の情報収集や義昭方との折衝に動いた。その功によって信長から山城国長岡(京都府長岡京市)の地をあてがわれ、青龍寺(勝龍寺とも書く)城に住んだ。これを機に細川姓を捨てて長岡姓を名乗り、家紋を足利家と縁のない九曜紋に替えて、足利一門であったことを隠滅しようとした。