看護婦の大関和と共に働いた

佐藤が外科を担ったこの第一医院は、日本で「看護」が生まれようとしていた場所でもあった。当時の看病婦の多くは基礎教育のない寡婦で、教育を受けた看護婦はほとんどいない。そこへ観察と衛生を柱とするナイチンゲール方式を持ち込んだのが、バーンズ先生のモチーフ、アグネス・ヴェッチである。明治21年(1888年)、外科の病室に痩せ衰えた重症の男児が収容された折には、ヴェッチが佐藤の許可を得て病室を磨き上げ、その看護に皇后(のちの昭憲皇太后)も心を動かされたと伝えられる(平尾真知子「エディンバラ王立救貧院病院とアグネス・ベッチ」、『昭憲皇太后 附女四書』)。

無菌を旨とする外科医にとって、病室を清潔に保つ看護は、敵ではなく自らの手術を支える土台だった。手術がいかに巧みでも、そのあと傷が膿めば患者は助からない。手術室の清潔を信じる佐藤と、病棟の清潔を貫く看護婦は、向かう先が同じだった。

「大関は僕の友人である」と公言

じつは、りんを看護から遠ざけたこの対立には、確かな史実の裏づけがある。大関和は明治21年の卒業後、第一医院の外科で看病婦取締(看護師長)を務めた。実習生のころには、乳癌の患者にすがられて一晩じゅう付き添い、医師たちから叱責を受けたこともある(『「大関和」を通して見た日本の近代看護』)。患者に寄り添うことと、医療の規律に従うこと。その板挟みは、ドラマのりんが立たされた状況と重なり合う。

大関和の看護学校実習生時代
提供=医療法人知命堂病院
大関和の看護学校実習生時代

教授となった佐藤は、その和を高く買っていた。トレインド・ナースの力を認めた病院上層部のなかでも、和への評価はとりわけ高かったという。佐藤は「大関は僕の友人である」と公言し、頭の回転が早く判断の的確な和を、医師と同格に扱った(青山誠『大関 和 看護に人生を捧げた日本のナイチンゲール』)。

取締となった和は、看病婦たちの惨状を見かねていた。仕事量は膨大で、休憩も交替もままならず、過労で病棟に倒れる者まで出る。そこで和は、外科の責任者であり医局長でもあった佐藤に宛てて、「看病婦の待遇改善に関する建議書」を提出する。看病婦を増やして昼夜の二交代制とし、睡眠と休息を確保すること、居室に新鮮な空気を入れること。古風な文体ながら、現場の実情を踏まえた、筋の通った提案だった(『「大関和」を通して見た日本の近代看護』、別冊太陽『大関和』)。