「風、薫る」(NHK)では献身的すぎる看護師のりん(見上愛)が仕事を続けられるかどうかという展開に。田幸和歌子さんは「りんのモチーフ、大関和さんの史実に沿った展開。大関さんを高く評価していた医師もいたが、わずか2年での退職は避けられなかった」という――。

古川雄大が演じる帝大病院の医師

NHK連続テレビ小説「風、薫る」(脚本・吉澤智子、原案・田中ひかる『明治のナイチンゲール 大関和物語』)第7週から、古川雄大が演じる今井益男が登場した。帝都医大病院外科の教授で、ドイツ留学帰りのエリートであり、看護を一段下に見る医師側を代表し、看護に携わる主人公たちとたびたび衝突する。

やがて、その対立が大きな事件を呼ぶ。目の前の患者に献身的すぎるほど寄り添おうとするヒロイン・りん(見上愛)の姿勢が、病院で問題視されるのだ。今井教授は、りんの過ちを、友人や家族としてなら理解できるが、医療従事者としては誤りだと断じる。それを境にりんは看護ができなくなり、相棒の直美(上坂樹里)のアドバイスもあり、いったん看護の道を離れる。

舞台の帝都医大病院が、大関和(りんのモチーフ)や鈴木雅(直美のモチーフ)の実習と勤務の場だった帝国大学医科大学附属第一医院(現・東京大学医学部附属病院)にあたることは、これまでの連載で触れてきた。では、その外科を率いる今井のモチーフは誰か。ドイツ帰りの外科教授という設定から浮かび上がるのが、「外科の佐藤」と呼ばれた佐藤三吉(1857〜1943年)である。

佐藤三吉(東京帝国大学医学部長)
佐藤三吉(東京帝国大学医学部長)(画像=『東京帝国大学五十年史 下冊』/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

佐藤は安政4年(1857年)、美濃国大垣藩士の家に生まれた。上京して医学を志し、明治15年(1882年)に東京大学医学部を卒業すると、附属医院の外科部助手となり、翌明治16年から20年まで、外科学研究のためドイツに留学する(任叙の上奏文「佐藤三吉外二名医科大学教授ニ任叙ノ件」アジア歴史資料センター)。

岐阜の秀才、ドイツに医学留学

佐藤が外科を学んだのは、ヨーロッパの手術が大きく変わろうとしていた時期だった。傷を薬品で消毒するリスター流の防腐法から、器具や術野そのものに細菌を持ち込まない無菌法へ。それまでの外科では、腹を切り開けば助かる見込みは乏しく、小さな傷の化膿が命取りになることも珍しくなかったが、無菌法はその壁を崩しつつあった。佐藤はこの変化のさなかで外科の経験を積み、帰国する。

帰朝した佐藤は、明治20年(1887年)11月、帝国大学医科大学の外科教授に任じられた。当時、外科を教えていたお雇い外国人ユリウス・スクリバがなお在任しており、『東京大学医学部百年史』に基づく東大の沿革によれば、附属医院の外科手術はスクリバと佐藤の二人が担っていたという。明治26年(1893年)に講座制が敷かれると、佐藤は外科学第二講座の教授となる。外科が体表の傷の処置から、腹部や胸部といった体内の病へと踏み込んでいく、ちょうどその時期にあたる。佐藤は内臓の手術に防腐・無菌の考え方と止血法を重んじる術式を取り入れていった。

看護婦の大関和と共に働いた

佐藤が外科を担ったこの第一医院は、日本で「看護」が生まれようとしていた場所でもあった。当時の看病婦の多くは基礎教育のない寡婦で、教育を受けた看護婦はほとんどいない。そこへ観察と衛生を柱とするナイチンゲール方式を持ち込んだのが、バーンズ先生のモチーフ、アグネス・ヴェッチである。明治21年(1888年)、外科の病室に痩せ衰えた重症の男児が収容された折には、ヴェッチが佐藤の許可を得て病室を磨き上げ、その看護に皇后(のちの昭憲皇太后)も心を動かされたと伝えられる(平尾真知子「エディンバラ王立救貧院病院とアグネス・ベッチ」、『昭憲皇太后 附女四書』)。

無菌を旨とする外科医にとって、病室を清潔に保つ看護は、敵ではなく自らの手術を支える土台だった。手術がいかに巧みでも、そのあと傷が膿めば患者は助からない。手術室の清潔を信じる佐藤と、病棟の清潔を貫く看護婦は、向かう先が同じだった。

「大関は僕の友人である」と公言

じつは、りんを看護から遠ざけたこの対立には、確かな史実の裏づけがある。大関和は明治21年の卒業後、第一医院の外科で看病婦取締(看護師長)を務めた。実習生のころには、乳癌の患者にすがられて一晩じゅう付き添い、医師たちから叱責を受けたこともある(『「大関和」を通して見た日本の近代看護』)。患者に寄り添うことと、医療の規律に従うこと。その板挟みは、ドラマのりんが立たされた状況と重なり合う。

大関和の看護学校実習生時代
提供=医療法人知命堂病院
大関和の看護学校実習生時代

教授となった佐藤は、その和を高く買っていた。トレインド・ナースの力を認めた病院上層部のなかでも、和への評価はとりわけ高かったという。佐藤は「大関は僕の友人である」と公言し、頭の回転が早く判断の的確な和を、医師と同格に扱った(青山誠『大関 和 看護に人生を捧げた日本のナイチンゲール』)。

取締となった和は、看病婦たちの惨状を見かねていた。仕事量は膨大で、休憩も交替もままならず、過労で病棟に倒れる者まで出る。そこで和は、外科の責任者であり医局長でもあった佐藤に宛てて、「看病婦の待遇改善に関する建議書」を提出する。看病婦を増やして昼夜の二交代制とし、睡眠と休息を確保すること、居室に新鮮な空気を入れること。古風な文体ながら、現場の実情を踏まえた、筋の通った提案だった(『「大関和」を通して見た日本の近代看護』、別冊太陽『大関和』)。

和は待遇改善を要求し、解任される

だが、医局を通さず教授に直訴したことが、医師たちのプライドを傷つけた。自分たちの頭越しに佐藤へ建議書が渡ったことに彼らは憤慨し、和の解任を求める声が医局内に湧き起こる。当時、病院での医師と看護婦の関係は「主人と召使」に近かったという(村上信彦『近代史のおんな』)。これだけの騒ぎになっては、佐藤にもはや和を庇う余地はない。医師たちの声を容れ、和を看病婦取締から解任して事を収めた(青山誠『大関 和 看護に人生を捧げた日本のナイチンゲール』)。

役職を解かれても病院を追われたわけではなく、一看護婦として残る道もあった。だが大半の医師を敵に回したいま、和は明治23年(1890年)11月、わずか2年で第一医院を去ることを選ぶ。3カ月後には、内科の看病婦取締だった鈴木雅(直美のモチーフ)も同院を退いている。

左から鈴木雅、アグネス・ヴェッチ、大関和
提供=医療法人知命堂病院
左から鈴木雅、アグネス・ヴェッチ、大関和

和が去った後の帝大病院では…

皮肉なことに、和が去ってまもなく、第一医院では看病法講習の聴講が許され、成績優秀者に卒業証書を与える規定までできた。和が建議書で求めた看護教育の充実は、彼女を追い出したあとに形になっていったのだ。看護を専門職として認めるかどうか。そこに、佐藤と和を隔てる一線があった。ドラマの「友達や家族としてなら理解できる」という今井の言葉は、患者に寄り添う看護が医療の秩序とぶつかった時代の軋みを、よく言い当てている。

佐藤は、俳人・正岡子規の手術も手がけている。明治30年(1897年)、腰の痛みを訴えた子規を診て、当初疑われたリウマチではなく脊椎カリエスと見立て、二度にわたって腰の腫物の膿を抜いた(子規庵「正岡子規について」、国立国会図書館レファレンス協同データベース/『子規全集』書簡・略年譜に基づく)。その前後の様子は、子規自身の書簡にも書きとめられている。注目したいのは、この手術のあと、同年6月に子規のもとへ日本赤十字社の看護婦が約1カ月入っていることだ(叔父・加藤拓川の出資)。執刀した外科医と、療養を支えた新しい看護とが、子規という一人の患者のそばで出会っていた。

正岡子規の肖像写真
正岡子規の肖像写真、1900年撮影、『明治文学研究 vol.2 正岡子規』より(写真=PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

二代の天皇や要人を診察した佐藤

佐藤は子規のほかにも、明治天皇・大正天皇をはじめ、東郷平八郎、原敬、教育家の下田歌子ら各界の要人を診療し、皇室の侍医も務めた。外科医であると同時に、教育者でもあった。外国人教師に頼っていた外科を、日本人の手で担う段階へと進め、後進を育てる中心に長く立った。明治32年(1899年)には第一回日本外科学会で初代会長に選ばれ、幹事には、のちに日本の整形外科を切り拓く田代義徳らが名を連ねている(日本外科学会「日本外科学会の足跡」)。その設立趣意書には、かつて手をつけられないとされた臓器も、もはや外科の領分だと記されていた。外科が扱う範囲が大きく広がっていく時代である。

明治34年に附属医院長、大正7年(1918年)には東京帝国大学医科大学長に就き、大正11年には貴族院議員に勅選された(「佐藤三吉関係資料」)。なお、同じ明治の外科に、リスター流の防腐法を日本へ持ち帰った順天堂の佐藤進という別人がいる。同姓で混同されやすいが、ドイツ仕込みで帝国大学の外科を率いたのが、こちらの佐藤三吉である。

東京帝国大学医科大学(1876年建造)を移築した現・東京大学博物館小石川別館
東京帝国大学医科大学(1876年建造)を移築した現・東京大学博物館小石川別館(画像=Wiiii/CC-BY-SA-3.0,2.5,2.0,1.0/Wikimedia Commons

昭和18年、85歳で亡くなる

私生活では、佐藤は岐阜県令・知事を長く務めた小崎利準の長女・滋子を妻に迎えている(『人事興信録』第8版)。小崎は伊勢亀山藩の出で、明治の前半を通じて佐藤の郷里・岐阜の県政を率いた人物だった。大垣の藩士の家から身を起こした佐藤は、故郷を治めた一家と縁を結んだことになる。

佐藤三吉が世を去ったのは、昭和18年(1943年)6月17日。没してから、今年でちょうど83年になる。郷里の大垣では今も「外科の佐藤」として、郷土の偉人に名を連ねている。日本の近代外科を築いた一人を、ドラマは今井益男というヒロインの対立者として描いている。その人物像をドラマがどこまで深く見せてくれるのか、今後も見届けたい。

・参考資料
アジア歴史資料センター「佐藤三吉外二名医科大学教授ニ任叙ノ件」、東京大学文書館デジタル・アーカイブ「佐藤三吉関係資料」、東京大学医学部脳神経外科「沿革」(『東京大学医学部百年史』に基づく)、日本外科学会「日本外科学会の足跡」、平尾真知子「エディンバラ王立救貧院病院とアグネス・ベッチ」(『日本医史学雑誌』第36巻第3号、1990年)、『昭憲皇太后 附女四書』、村上信彦『近代史のおんな』、『「大関和」を通して見た日本の近代看護』、別冊太陽『大関和』、MSムック『大関和と鈴木雅の人生』、青山誠『大関 和 看護に人生を捧げた日本のナイチンゲール』(角川文庫)、『人事興信録』第8版(昭和3年)、国立国会図書館レファレンス協同データベース(正岡子規の手術に関する事例。『子規全集』書簡・略年譜に基づく)、子規庵「正岡子規について」、大垣市公式サイト「郷土の偉人 佐藤三吉」、NHK「風、薫る」公式サイトおよび各話あらすじ