兄・秀吉との違い
また、前出の和田氏は前掲『豊臣秀長』にこう書く。〈慈雲院は『東西歴覧記』『吉田紀行』が引く善正寺の過去帳によると、元和六年(一六二〇)三月二十八日没。同記には、正確には「慈雲院、元和六年三月二十八日 大和大納言母公」としているが、秀長の母(大政所)ではなく秀長正室の慈雲院のことである〉。
仮に秀長より10歳若かったとすれば、数え70歳で没したことになる。秀長の死後、豊臣政権が内部から崩壊し、徳川家康によって簒奪され、ついには豊臣氏が滅亡するまで、すべてを見届けての死だった。
ところで、兄の秀吉は何人もの別妻がいたほか、イエズス会の宣教師ルイス・フロイスが記した『日本史』には、家臣の娘などで気に入った女性がいればみな召し出させるなど、その女癖が周囲から恐れられていた旨が記されている。
一方、秀長に関しては、慈雲院のほかには先に触れた摂取院光秀以外に、別妻や妾の名は記録されていない。「豊臣兄弟!」では、秀吉は若いころから女遊びが派手なのに対し、秀長は女性に奥手であるように描かれている。少なくとも史料から確認できるかぎり、女性に関する兄弟の描き方としては、やはり的を射ているのではないだろうか。
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。