名前でわかっているのは出家後のみ
秀長の妻についての情報は少ない。「豊臣兄弟!」に慶が登場するのは永禄12年(1569)だが、秀長の妻のことが同時代の史料ではじめて確認できるのは、天正13年(1585)になってから。つまり16年ものちのことになる。
この年、秀長は兄の秀吉から、あらたに大和(奈良県)の統治を委ねられ、9月3日に本拠と定めた大和郡山城(大和郡山市)に入城した。そのとき秀長に付き添って入国した女性のことが、『多聞院日記』(興福寺の塔頭、多聞院で書き継がれた日記)に見える。「濃州女中」と書かれ、その後、「大納言ノ御内」などとも記されるこの女性が、秀長の妻だと考えられている。
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