“おいしい”は生きている証し
東京では料理教室の人気が高まると同時に、テレビや雑誌などのメディアへの露出も増えていった。少しずつ料理研究家として成長し、活動の場を広げていくが、夫の転勤で福岡県北九州市に引っ越すことに。
「長男と長女は東京の私立中学に進学しており、『東大も夢ではない』と意気込んでいたのですが、転校させました。ふたりには悪いことをしたと思います」
そういう村上さんも、順調だった料理研究家としての仕事をすべて手放し、夫について行くことに。しかし、持ち前のバイタリティもあり、行く先々で地元新聞紙のレシピ連載など仕事をつかんでいく。
すべてが順調にいっているかのように見える村上さんの人生だが、原因不明の病を長く患ったこともある。
「高熱が続き、内科、耳鼻科、脳外科など大学病院で何度も検査をしましたが、原因はわかりませんでした……。『虫歯が原因とかじゃないの?』と夫に言われ、歯科を受診すると、やっと“慢性顎骨骨髄炎”だとわかりました。治療が始まり、4年で8回の手術をして歯を14本抜き……今ではすべて義歯になりました」
そんな入院中のあるとき、夫がイタリアから届いた生ハムを届けてくれた。それが大変なおいしさ。生ハムの塩味が傷口に染みる、でも、食べたい。小さく切って少しずつ口に入れた。「“おいしい”と思うことは生きていることを実感することなんだと、心の底から思いました」。
しかし、手術を繰り返していたときでさえ、料理研究家としての執筆活動や料理教室を継続。多忙を極めていたが、仕事をセーブすることはなかったという。
「そうね、今考えると不思議。どうやって仕事をしていたのかしらね。テレビのレギュラー番組も大学の講師の仕事もキャンセルした覚えはないのだけれど(笑)」
きっと機転を利かせ、持ち前のパワーで乗り切ったのだろう。
仕事がある限り自分らしくいられる
結婚後、夫の転勤のたびに転居を繰り返し、家族全員で各地に暮らしてきたが、48歳のとき、もう転勤はないだろうと踏んで、空港にアクセスしやすい福岡市内に自宅兼料理スタジオを建築した。
その後、子ども3人が巣立った54歳のときに東京・西麻布に料理スタジオを開設し、東京と福岡を行き来する生活となった。60歳を越え、自著『頑張らない台所 60歳からはラクしておいしい』(大和書房)を上梓すると、シニアブームのなか、さらに注目を集め、『徹子の部屋』(テレビ朝日系列)や『月曜から夜ふかし』(日本テレビ)など、多くのテレビ番組にも出演した。
夫は、仕事に打ち込む村上さんを「やりたいことがあるのはいいことだ」といつも応援してくれていたそう。試作料理をいちばん最初に食べてもらうのも夫で、「僕は実験台」とユーモアを交えて話していた。定年退職した後は、村上さんの会社の経理を担当し、雑務の一切を担ってくれていた……そんな夫は2014年に天国に旅立った。
「私が考案したレシピの特許申請を行ってくれていたのも夫です。彼は私にとって最高の親友であり、パートナーであり、アドバイザー。猪突猛進する私をずっと見守ってくれていました。夫のいない生活は寂しいものですが、過去を振り返ってばかりいても仕方がありません。次のステップに進まないと。最後まで自分らしくいたい。仕事をしている限り、私らしくいられると思っています」
インタビュー取材・構成=江藤誌惠 撮影協力=品川プリンスホテル「コーヒーラウンジ マウナケア」
1942年福岡県生まれ。結婚後、27歳で料理教室をはじめ、料理コンテストの優勝をきっかけに料理研究家の道へ。1985年より福岡女子大学で栄養指導講座を担当。治療食の開発で油控えめでも一人分でも短時間調理ができる電子レンジに着目。研究を重ね、電子レンジ調理の第一人者となる。生活習慣病予防改善、個食時代の一人分簡単レシピ、小、中学校や保育園・幼稚園での食育出張授業、シニアの料理教室などあらゆるジャンルで電子レンジテクを活用。近著に『シニアひとり分のラクチンお鍋』(宝島社)、『古くて新しい 今こそ大豆』(東京書籍)、『料理家 村上祥子式 食べて生きのびる食べ力®』(集英社)など。著書は594冊以上、累計1296万部に上る。
