八雲没後、日本でセツに3回会った
ビスランドは八雲の没後3回、来日し、そのたびにセツのもとを訪ねています。セツとも心温まる文面の手紙を交わし、一雄とも良好な間柄を保ちました。日本食を好み、茶の湯や生け花にも親しみました。ワシントンDCの自宅には「音無庵」と名付けた部屋を設け、お茶会などを開き、親日家ぶりを発揮しています。
自身の夫が他界した後、1922(大正11)年、最後に日本を訪れた時には、八雲が暮らした松江の八雲旧居に足を運んでいます。
60歳を超えていました。
「30年ぶりに、あのかけがえのない友人、ラフカディオ・ハーンの美しい心にまた巡り合う。それは、彼がこよなく愛した屋敷に、香炉から漂う香りのように息づいている」
旧居の芳名録には、そう書き残されています。
八雲晩年の友・マクドナルド
前述のビスランドは1889(明治32)年、世界一周旅行の最中に横浜を訪れ、ミッチェル・マクドナルド(1853〜1923)と知り合いました。それから1年後、八雲は横浜に上陸した直後、ビスランドの紹介状を持ってマクドナルドを訪ねます。日米の隔たりを越えた3人に深いつながりが芽生え、マクドナルドは、八雲晩年の大親友となります。
そして、セツら遺族を支える基盤が築かれることとなりました。
マクドナルドは、米国海軍主計官として横浜で勤務していた人物です。米国勤務をはさんで、松江から熊本、神戸を経て上京した八雲とは1898(明治31)年頃から親交が深まりました。
互いに行き来をして、八雲の家もよく訪ねてきました。よほどウマが合ったのでしょう。
書斎から朗らかな笑い声が響き、英語の分からないセツも「もらい笑い」をしていたほどでした。
明るい話ばかりではありません。晩年の八雲は、心臓の不調といった身体の衰えを痛感していました。だから自身が世を去った後の妻子の行く末を、いつも気に病んでいたのです。
「苦労性の天才」
八雲のことを、マクドナルドはそう評しました。3歳年下ですが、頼りがいのある熱血漢でした。心配事を聞かされると、
「なに、私が控えている」
そう請け合ってくれたと言います。葬儀では男泣きに泣いていた、とセツは記憶しています。
情に厚いばかりではなく、頭脳明晰で、行動力の塊のような人でした。八雲の没後、セツと子どもたちを親身になって支えてくれました。まず遺産管理人を引き受けてくれます。