ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が死去した後、遺された妻セツと4人の子はどうなったのか。小泉八雲記念館館長の小泉凡さんは「八雲と親しかったエリザベス・ビスランドや横浜グランドホテル社長のマクドナルドが遺族を金銭面でも支えた」という――。

※本稿は、小泉凡『セツと八雲』(朝日新書)の一部を再編集したものです。

エリザベスからセツへの手紙

米国人のエリザベス・ビスランド(結婚後の姓はウエットモア、1861〜1929)は、八雲の訃報を報道で知り、すぐにセツに心のこもった手紙を書きました。

八雲が日本に来るにあたり、重要な示唆を与えてくれた人物です。才気に満ち、端正な顔立ちの女性です。余談ですが、八雲の交友関係を辿たどると、素敵な女性との出会いに恵まれた感じがあります。

ハーンの友人エリザベス・ビスランド
写真提供=小泉家(無断複製禁止)
ハーンの友人エリザベス・ビスランド、写真提供=小泉家(無断複製禁止)

ビスランドは八雲より11歳年下で、ルイジアナの大農場に生まれましたが、南北戦争後は暮らしが困窮しました。八雲の書いた新聞記事を読み、心を奪われます。

「こんな記事を書けるジャーナリストになりたい」

やがてあこがれの八雲が文芸部長を務めていたニューオーリンズのタイムズ・デモクラット社に入社して、ともに働くようになりました。

その後ニューヨークに移り住み、活躍の場を探り、シカゴ・トリビューン紙など多くの新聞・雑誌へ寄稿を重ねます。やがてコスモポリタン誌の編集者になり、才能が開花します。

1889(明治22)年、コスモポリタン誌の企画でビスランドは世界一周の旅に出ました。

76日19時間48分でゴールします。この間、アメリカ大陸を鉄道で横断し、サンフランシスコから横浜に着きました。日本がいたく気に入った彼女は、日本滞在記を写真入り12ページにわたった特集としてコスモポリタン誌にまとめます。そして道中の見聞録は『飛ぶがごとく世界旅行』と題して刊行されました。

八雲とセツがともに暮らし始めた1891(明治24)年、ビスランドもニューヨークの弁護士チャールズ・ウエットモアと結婚しました。子どもはいませんでした。

相思相愛の「心の恋人」

ビスランドと八雲は、たくさんの書簡を交わしています。八雲もまた彼女の書き手としての才能に感服していました。

ふたりの間柄には機微があり、相思相愛の「心の恋人」という趣が感じられます。日米に離れていますから、のりを越える(編集部註:既婚者として道を踏み外す)べくもありませんが、往復書簡にはラブレターといえるような文面も記されています。

「あなたの日本に関する本を読み終え、ここ2、3日どんなに楽しませていただいたかお伝えしたいという気になった。私はあなたのいる日本をもう一度見たいと思い焦がれている」(ビスランドから八雲へ、1895年6月15日)
「何度も何度もあなたに宛てて手紙を書いては火の中に投じた。その後私は髪が灰色になり、今は3人の男の子の親。たびたびあなたが気に入るような書物を書きたい」(八雲からビスランドへ、1900年1月)

来日したのはエリザベスのため?

八雲は来日後9作目となる民間伝承や随筆などを収めた『日本雑記』(1901年)を、ビスランドに捧げています。

そして、1902(明治35)年7月の手紙では、

「12年前、日本へ行ってほしい、あなたが書いた本が読みたいから、と言ったのを思い出す。もうすぐ日本についての十冊目(『骨董』)が出版される」

という、生涯胸に抱きつづけた心情を八雲は明かしています。

来日前から『古事記』を読み、日本への思いを募らせていた八雲。1890(明治23)年の日本への出発を前に、世界一周の旅で日本に心ひかれたビスランドの言葉に背中を押されたのでしょう。八雲は来日前からビスランドに恋心を抱いていたふしがあります。ただ、若い頃の離婚の痛手がなお残り、踏み出せなかったのかもしれません。

加えて、この手紙では長男一雄の教育のため、1年か2年アメリカで働けるように取りはからってほしい、とも頼んでいます。

ビスランドも十数年ぶりに、どうしても八雲に会いたかったのでしょう。米国の大学で講義ができるように奔走しました。

晩年の小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)
写真提供=小泉家(無断複製禁止)
晩年の小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)、写真提供=小泉家(無断複製禁止)

「私以上にあなたを愛する人はいない」

東部の名門コーネル大学で20回連続講義の計画が立てられましたが、コレラの発生によってとりやめになりました。諦めきれない彼女は、ハーバード大学などに働きかけますが、結局、不首尾に終わります。この間、八雲は帝大を解雇され、心臓のほか、気管支炎を患い、手放せなかったタバコもやめざるを得ない症状にさいなまれます。

肩を落とす八雲に、ビスランドからこんな文面が送られました。

「あなたに病気と落胆が降りかかっているとは、毎日つらい思いのし通しです。私は自信を持っていますが、これまでだれ一人として私ほど誠実にあなたに愛情をもっているものはいません。あなたの最初の一行を読んで以来これまでの年月ずっと、あなたから頂いた無限の楽しみと霊感に感謝しています」

彼女の熱意を意気に感じた八雲は、コーネル大学での講義向けに、これまでにない書物を書き上げていました。紀行文でも再話作品でもない、硬質な論考集です。日本人の精神史をテーマにしたそれは、図らずも日本とアメリカの転換期に大きな影響を及ぼすことになります。

前にも述べた、八雲の初めての伝記・書簡集『ラフカディオ・ハーンの人生と書簡』は、ビスランドの編集によって刊行されました。これにセツによる『思ひ出の記』も収められ、小泉家に収益が寄付されました。

八雲没後、日本でセツに3回会った

ビスランドは八雲の没後3回、来日し、そのたびにセツのもとを訪ねています。セツとも心温まる文面の手紙を交わし、一雄とも良好な間柄を保ちました。日本食を好み、茶の湯や生け花にも親しみました。ワシントンDCの自宅には「音無庵」と名付けた部屋を設け、お茶会などを開き、親日家ぶりを発揮しています。

自身の夫が他界した後、1922(大正11)年、最後に日本を訪れた時には、八雲が暮らした松江の八雲旧居に足を運んでいます。

60歳を超えていました。

「30年ぶりに、あのかけがえのない友人、ラフカディオ・ハーンの美しい心にまた巡り合う。それは、彼がこよなく愛した屋敷に、香炉から漂う香りのように息づいている」

旧居の芳名録には、そう書き残されています。

八雲晩年の友・マクドナルド

前述のビスランドは1889(明治32)年、世界一周旅行の最中に横浜を訪れ、ミッチェル・マクドナルド(1853〜1923)と知り合いました。それから1年後、八雲は横浜に上陸した直後、ビスランドの紹介状を持ってマクドナルドを訪ねます。日米の隔たりを越えた3人に深いつながりが芽生え、マクドナルドは、八雲晩年の大親友となります。

ラフカディオ・ハーンと友人のミッチェル・マクドナルド、エリザベス・ビスランド
ラフカディオ・ハーンと友人のミッチェル・マクドナルド(写真=エリザベス・ビスランド著『ラフカディオ・ハーンの生涯と書簡』1906年より/PD-US/Wikimedia Commons

そして、セツら遺族を支える基盤が築かれることとなりました。

マクドナルドは、米国海軍主計官として横浜で勤務していた人物です。米国勤務をはさんで、松江から熊本、神戸を経て上京した八雲とは1898(明治31)年頃から親交が深まりました。

互いに行き来をして、八雲の家もよく訪ねてきました。よほどウマが合ったのでしょう。

書斎から朗らかな笑い声が響き、英語の分からないセツも「もらい笑い」をしていたほどでした。

明るい話ばかりではありません。晩年の八雲は、心臓の不調といった身体の衰えを痛感していました。だから自身が世を去った後の妻子の行く末を、いつも気に病んでいたのです。

「苦労性の天才」

八雲のことを、マクドナルドはそう評しました。3歳年下ですが、頼りがいのある熱血漢でした。心配事を聞かされると、

「なに、私が控えている」

そう請け合ってくれたと言います。葬儀では男泣きに泣いていた、とセツは記憶しています。

情に厚いばかりではなく、頭脳明晰めいせきで、行動力の塊のような人でした。八雲の没後、セツと子どもたちを親身になって支えてくれました。まず遺産管理人を引き受けてくれます。

セツと子供たちのために金策を

国内外のできる限りの八雲の友人に声をかけ、八雲からの書簡を集め、これがビスランド編集の『ラフカディオ・ハーンの人生と書簡』に織り込まれます。八雲の帝大時代の講義録刊行にもこぎつけました。

セツに安定した収入をもたらそうと、八雲邸の敷地に借家を建てることにしました。この資金調達のため、ニューヨークの出版社に2作品の著作権を売却します。これは大きな支えとなりました。

横浜を愛していたマクドナルドは海軍を退役し、横浜グランドホテル社長になります。現在の山下公園前、ホテルニューグランドがあるあたりの、横浜港をのぞむ地にあった高級ホテルです。

独身ということもあり、一雄をわが子のように可愛がっていました。

30歳になる頃の一雄は、マクドナルドの秘書兼倉庫係を担っていました。早朝5時半から午後7時過ぎまで、というきつい勤務でした。そのうえ英作文の宿題も与えられました。マクドナルドはゆくゆくは一雄を後継者に、という思いがあり、米国に留学させるつもりで鍛えていたのです。

セツと成長した子どもたち、後列左2人目から三男・清、次男・巌、長男・一雄、前列左から長女・寿々子、セツ、一雄の妻・喜久恵
写真提供=小泉家(無断複製禁止)
セツと成長した子どもたち、後列左2人目から三男・清、次男・巌、長男・一雄、前列左から長女・寿々子、セツ、一雄の妻・喜久恵、写真提供=小泉家(無断複製禁止)

地下にあった倉庫では作業衣を着て、何かの用事があって階上にあがる時は背広に着替えて、用事をこなす多忙な日々。ハードワークが続いたせいか、一雄は風邪をこじらせ、肺炎を患いました。マクドナルドも心配を募らせ、信州で転地療養をすることになったのです。

横浜グランドホテル社長だったが…

これが運命の分かれ目でした。

1923(大正12)年9月、横浜グランドホテルは関東大震災による火災で燃えあがります。マクドナルドは避難しましたが、「アメリカ人女性が取り残された」という情報を耳にして、矢も盾もたまらず建物に引き返し、そのまま帰らぬ人になりました。

信州にいた一雄は難を逃れましたが、震災の報を聞き、鉄道で群馬・高崎まで戻り、そこで野宿をした翌朝、貨物列車と徒歩で何とか帰京します。西大久保の家でセツら家族の無事を確かめた後、ただちに瓦礫がれきの都市と化した横浜へ赴き、マクドナルドの殉職を知ります。第二の父も失ってしまった。言いようのない悲しみに一雄はうちひしがれました。

小泉凡『セツと八雲』(朝日新書)
小泉凡『セツと八雲』(朝日新書)

マクドナルドは八雲と妻子を全力で支えてくれた大恩人です。関東大震災から100年以上となる現在も、浄心院殿法興密英居士という彼の戒名が刻まれた位牌いはいを、小泉家では仏壇に据え、手をあわせています。

震災による被害がすさまじかったことから、小泉家は八雲の蔵書を安全に保管できる大学へ一括譲渡したい、と考えるようになりました。その頃、開校の準備が進められていた旧制富山高校が名乗りをあげます。譲渡にあたっては当時のお金で2万円もの金額が支払われました。現在でも富山大学には八雲の愛読書など2400冊余りが揃い、「ヘルン文庫」という名で保管され、八雲の足跡をたどる人に活用されています。