「あきらめつくまで、いてほしかった」

私は一緒に参りました。暫らくの間、胸に手をあてて、室内を歩いていましたが、そっと寝床に休むように勧めまして、静かに横にならせました。間もなく、もうこの世の人ではありませんでした。少しも苦痛のないように、口のほとりに少し笑を含んで居りました。天命ならば致し方もありませんが、少しく長く看病をしたりして、いよいよ駄目とあきらめのつくまで、いてほしかったと思います。余りあっけのない死に方だと今に思われます。

落合橋を渡って新井の薬師の辺までよく一緒に散歩をした事があります。その度毎に落合の火葬場の煙突を見て今に自分もあの煙突から煙になって出るのだと申しました。

平常から淋しい寺を好みました。垣の破れた草の生いしげった本堂の小さい寺があったら、それこそヘルンの理想でございましたろうが、そんなところも急には見つかりません。墓も小さくして外から見えぬようにしてくれと、平常申して居りましたが、遂に瘤寺こぶでらで葬式をして雑司谷ぞうしがやの墓地に葬る事になりました。

小泉八雲の葬儀の様子、1904年
写真提供=小泉家(無断複製禁止)
小泉八雲の葬儀の様子、1904年、写真提供=小泉家(無断複製禁止)

瘤寺は前に申したようなわけで、ヘルンの気に入らなくなったのですが、以前からの関係もあり、又その後浅草の伝法院の住職になった人と交際があった縁故から、その人を導師として瘤寺で式を営む事になりました。ヘルンは禅宗が気に入ったようでした。

雑司ヶ谷の共同墓地に葬ったワケ

小泉家はもともと浄土宗ですから伝通院がよかったかも知れませんが、何分その当時は大分荒れていましたので、そこへ参る気にはなりませんでした。お寺へ葬りましても墓地は直に移転になりますので、どうしても不安心でなりませんから割合に安心な共同墓地へ葬る事に致しました。青山の墓地は余りにぎやかなので、ヘルンは好みませんでした。

長谷川洋二『八雲の妻 小泉セツの生涯』(潮文庫)
長谷川洋二『八雲の妻 小泉セツの生涯』(潮文庫)

雑司ヶ谷の共同墓地は場所も淋しく、形勝けいしょう(編集部註:景勝の意味)の地でもあると云うので、それにする事に致しました。一体雑司ヶ谷はヘルンが好んで参りましたところでした。私によいところへ連れて行くと申しまして、子供と一緒に雑司ヶ谷へつれて参った事もございました。面影橋と云う橋の名はどうして出たかと聞かれた事もございました。鬼子母神きしもじんの辺を散歩して、鳥の声がよいがどう思うかなどと度々申しました。関口から雑司ヶ谷にかけて、大層よいところだが、もう二十年も若ければこの山の上に、家をたてて住んで見たいが残念だ、などと申した事もございました。

表門を作り直すために、亡くなる二週間程前に二人で方々の門を参考に見ながら雑司ヶ谷辺を散歩を致したのが二人で外出した最後でございました。その門は亡くなる二日前程から取りかかりまして亡くなってから葬式の間に合うように急いで造らせました。

雑司ヶ谷霊園の小泉八雲の墓
雑司ヶ谷霊園の小泉八雲の墓(写真=Kakidai/CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons

※(『八雲の妻 小泉セツの生涯』著者・長谷川洋二)『小泉八雲全集─別巻』(第一書房・一九二七)所収のテキストを元として、漢字を旧字体から新字体に改め、編集部のミスとみなすべき点を訂正した。(プレジデントオンライン編集部)「つ」を「っ」にするなど、読みやすくするため現代文調に一部改め、長い段落は改行した。

小泉 セツ(こいずみ・せつ)

1868~1932年。松江藩士・小泉家の娘として生まれ、稲垣家の養女となる。1896年にラフカディオ・ハーン(小泉八雲)と入籍し、小泉セツに復籍。4子をもうける。1904年にハーンと死別し、1904年に『思ひ出の記』を発表