※本稿は、長谷川洋二『八雲の妻 小泉セツの生涯』(潮文庫)の一部を再編集したものです。
東京で没したハーンの最期の日々
(編集部註:明治)三十七年九月十九日の午後三時頃、私が書斎に参りますと、胸に手をあてて静かにあちこち歩いていますから「あなたお悪いのですか」と尋ねますと「私、新しい病気を得ました」と申しました。「新しい病、どんなですか」と尋ねますと「心の病です」と申しました。私は「余りに心痛めましたからでしょう。安らかにしていて下さい」と慰めまして、直に、兼てかかっていました木澤さん(編集部註:医師)のところまで、二人曳の車で迎えにやりました。
ヘルンは常々自分の苦しむところを、私や子供に見せたくないと思っていましたから、私に心配に及ばぬからあちらに行って居るようにと申しました。しかし私は心配ですから側にいますと、机のところに参りまして何か書き始めます。私は静かに気を落ちつけて居るように勧めました。ヘルンはただ「私の思うようにさせて下さい」と申しまして、直に書き終りました。
「これは梅さん(編集部註:法律家)にあてた手紙です。何か困難な事件の起った時に、よき智慧をあなたに貸しましょう。この痛みも、もう大きいの、参りますならば、多分私、死にましょう。そのあとで、私死にますとも、泣く、決していけません。小さい瓶買いましょう。三銭あるいは四銭位のです。私の骨入れるのために。そして田舎の淋しい小寺に埋めて下さい。悲しむ、私喜ぶないです。あなた、子供とカルタして遊んで下さい。如何に私それを喜ぶ。私死にましたの知らせ、要りません。若し人が尋ねましたならば、はああれは先頃なくなりました。それでよいです」
ハーンは寿命を悟り「仕方がない」
私は「そのような哀れな話して下さるな、そのような事決してないです」と申しますと、ヘルンは「これは常談でないです。心からの話。真面目の事です」と力をこめて、申しまして、それから「仕方がない」と安心したように申しまして、静かにしていました。
ところが数分たちまして痛みが消えました。「私行水をして見たい」と申しました。冷水でとの事で湯殿に参りまして水行水を致しました。
痛みはすっかりよくなりまして「奇妙です、私今十分よきです」と申しまして「ママさん、病、私から行きました。ウイスキー少し如何ですか」と申しますから、私は心臓病にウイスキー、よくなかろうと心配致しましたが、大丈夫と申しますから「少し心配です。しかし大層欲しいならば水を割って上げましょう」と申しまして、与えました。コップに口をつけまして「私もう死にません」と云って、大層私を安心させました。この時、このような痛みが数日前に始めてあった事を話しました。それから「少し休みましょう」と申しまして、書物を携えて寝床の上に横になりました。
医者嫌い、健康に気を遣わなかった
そのうちに医師が参られました。ヘルンは「私、どうしよう」などと申しまして、書物を置いて客間に参りまして、医師に遇いますと「御免なさい、病、行ってしまいました」と云って笑っていました。医師は診察して別に悪いところは見えません、と申されまして、いつものように常談など云って、色々話をしていました。
ヘルンはもともと丈夫の質でありまして、医師に診察して頂く事や薬を服用する事は、子供のように厭がりました。私が注意しないと自分では医師にかかりません。ちょっと気分が悪い時に私が御医者様にと云う事を少し云いおくれますと、「あなたが御医者様忘れましたと、大層喜んでいたのに」などと申すのでございました。
ヘルンは書いて居る時でなければ、室内を歩きながら、あるいは廊下をあちこち歩きながら、考え事をして居るのです。病気の時でも、寝床の中に永く横になって居る事はできない人でした。
庭の桜が秋なのに咲いたワケ
亡くなります二三日前の事でありました。書斎の庭にある桜の一枝がかえり咲きを致しました。女中のおさき(焼津の乙吉の娘)が見つけて私に申し出ました。私のうちでは、ちょっと何でもないような事でも、よく皆が興に入りました。「今日籔に小さい筍が一つ頭をもたげました。あれ御覧なさい、黄な蝶が飛んでいます。(編集部註:長男の)一雄が蟻の山を見つけました。蛙が戸に上って来ました。夕焼けがしています。段々色が美しく変って行きます」こんな些細な事柄を私のうちでは大事件のように取騒ぎまして一々ヘルンに申します。それを大層喜びまして聞いてくれるのです。可笑しいようですが、大切な楽みでありました。蛙だの、蝶だの、蟻、蜘蛛、蝉、筍、夕焼けなどはパパの一番のお友達でした。
日本では、返り咲きは不吉の知らせ、と申しますから、ちょっと気にかかりました。けれどもヘルンに申しますと、いつものように「有難う」と喜びまして、縁の端近くに出かけまして「ハロー」と申しまして、花を眺めました。「春のように暖いから、桜思いました、あゝ、今私の世界となりました、で咲きました、しかし……」と云って少し考えていましたが「可哀相です、今に寒くなります、驚いて凋みましょう」と申しました。花は二十七日一日だけ咲いて、夕方にはらはらと淋しく散ってしまいました。この桜は年々ヘルンに可愛がられて、賞められていましたから、それを思って御暇乞を申しに咲いたのだと思われます。
ヘルンは早起きの方でした。しかし、私や子供の「夢を破る、いけません」と云うので私が書斎に参りますまで火鉢の前にキチンと坐りまして、静かに煙草をふかしながら待って居るのが例でした。
八雲はヘビースモーカーだった
あの長い煙管が好きでありまして、百本程もあります。一番古いのが日本に参りました年ので、それから積り積ったのです。一々彫刻があります。浦島、秋の夜のきぬた、茄子、鬼の念仏、枯枝に烏、払子、茶道具、去年今夜の詩、などのは中でも好きであったようです。これでふかすのが面白かったようです。
外出の時は、かますの煙草入に鉈豆のキセルを用いましたが、うちでは箱のようなものに、この長い煙管をつかねて入れ、多くの中から、手にふれた一本を抜き出しまして、必ず始めにちょっと吸口と雁首とを見て、火をつけます。座布団の上に行儀よく坐って、楽しそうに体を前後にゆるくゆりながら、ふかして居るのでございます。
西洋でも日本でもないところへ
亡くなった二十六日の朝、六時半頃に書斎に参りますと、もうさめていまして(編集部註:起床していて)、煙草をふかしています。「お早うございます」と挨拶を致したが、何か考えて居るようです。それから「昨夜大層珍らしい夢を見ました」と話しました。私共は、いつも御互に夢話を致しました。「どんな夢でしたか」と尋ねますと「大層遠い、遠い旅をしました。今ここにこうして煙草をふかしています。旅をしたのが本当ですか、夢の世の中」などと申して居るのです。「西洋でもない、日本でもない、珍らしいところでした」と云って、独りで面白がっていました。
三人の子供達は、床につきます前に、必ず「パパ、グッドナイト、プレザント、ドリーム」と申します。パパは「ザ、セーム、トウ、ユー」又は日本語で「よき夢見ましょう」と申すのが例でした。
長男の「おはよう」に「おやすみ」
この朝です、一雄が学校へ参ります前に、側に参りまして「グッド、モーニング」と申しますと、パパは「プレザント、ドリーム」と答えましたので、一雄もつい「ザ、セーム、トウ、ユー」と申したそうです。
この日の午前十一時でした。廊下をあちこち散歩して居まして、書院の床に掛けてある絵をのぞいて見ました。これは「朝日」と申します題で、海岸の景色で、沢山の鳥が起きて飛んで行くところが描いてありまして夢のような絵でした。ヘルンは「美しい景色、私このようなところに生きる、好みます」と心を留めていました。
掛物をよく買いましたが、自分からこれを掛けてくれあれを掛けよ、とは申しませんでした。ただ私が、折々掛けかえて置きますのを見て、楽しんでいました。御客様のようになって、見たりなどして喜びました。地味な趣味の人であったと思います。御茶も好きで喜んで頂きました。私が致していますと、よく御客様になりました。一々細かな儀式は致しませんでしたが、大体の心はよく存じて無理は致しませんでした。
自分の死期が分かっていたか
ヘルンは虫の音を聞く事が好きでした。この秋、松虫を飼っていました。九月の末の事ですから、松虫が夕方近く切れ切れに、少し声を枯らして鳴いていますのが、いつになく物哀れに感じさせました。私は「あの音を何と聞きますか」と、ヘルンに尋ねますと「あの小さい虫、よき音して、鳴いてくれました。私なんぼ喜びました。しかし、段々寒くなって来ました。知っていますか、知っていませんか、直に死なねばならぬと云う事を。気の毒ですね、可哀相な虫」と淋しそうに申しまして「この頃の温い日に、草むらの中にそっと放してやりましょう」と私共は約束致しました。
桜の花の返り咲き、長い旅の夢、松虫は皆何かヘルンの死ぬ知らせであったような気が致しまして、これを思うと、今も悲しさにたえません。
夕食では元気に談笑していたが…
午後には満洲軍の藤崎さんに書物を送って上げたいが何がよかろう、と書斎の本棚をさがしたりして、最後に藤崎さんへ手紙を一通書きました。夕食をたべました時には常よりも機嫌がよく、常談など云いながら大笑など致していました。
「パパ、グッドパパ」「スウイト・チキン」と申し合って、子供等と別れて、いつのように書斎の廊下を散歩していましたが、小一時間程して私の側に淋しそうな顔して参りまして、小さい声で「ママさん、先日の病気また帰りました」と申しました。
「あきらめつくまで、いてほしかった」
私は一緒に参りました。暫らくの間、胸に手をあてて、室内を歩いていましたが、そっと寝床に休むように勧めまして、静かに横にならせました。間もなく、もうこの世の人ではありませんでした。少しも苦痛のないように、口のほとりに少し笑を含んで居りました。天命ならば致し方もありませんが、少しく長く看病をしたりして、いよいよ駄目とあきらめのつくまで、いてほしかったと思います。余りあっけのない死に方だと今に思われます。
落合橋を渡って新井の薬師の辺までよく一緒に散歩をした事があります。その度毎に落合の火葬場の煙突を見て今に自分もあの煙突から煙になって出るのだと申しました。
平常から淋しい寺を好みました。垣の破れた草の生いしげった本堂の小さい寺があったら、それこそヘルンの理想でございましたろうが、そんなところも急には見つかりません。墓も小さくして外から見えぬようにしてくれと、平常申して居りましたが、遂に瘤寺で葬式をして雑司谷の墓地に葬る事になりました。
瘤寺は前に申したようなわけで、ヘルンの気に入らなくなったのですが、以前からの関係もあり、又その後浅草の伝法院の住職になった人と交際があった縁故から、その人を導師として瘤寺で式を営む事になりました。ヘルンは禅宗が気に入ったようでした。
雑司ヶ谷の共同墓地に葬ったワケ
小泉家はもともと浄土宗ですから伝通院がよかったかも知れませんが、何分その当時は大分荒れていましたので、そこへ参る気にはなりませんでした。お寺へ葬りましても墓地は直に移転になりますので、どうしても不安心でなりませんから割合に安心な共同墓地へ葬る事に致しました。青山の墓地は余りにぎやかなので、ヘルンは好みませんでした。
雑司ヶ谷の共同墓地は場所も淋しく、形勝(編集部註:景勝の意味)の地でもあると云うので、それにする事に致しました。一体雑司ヶ谷はヘルンが好んで参りましたところでした。私によいところへ連れて行くと申しまして、子供と一緒に雑司ヶ谷へつれて参った事もございました。面影橋と云う橋の名はどうして出たかと聞かれた事もございました。鬼子母神の辺を散歩して、鳥の声がよいがどう思うかなどと度々申しました。関口から雑司ヶ谷にかけて、大層よいところだが、もう二十年も若ければこの山の上に、家をたてて住んで見たいが残念だ、などと申した事もございました。
表門を作り直すために、亡くなる二週間程前に二人で方々の門を参考に見ながら雑司ヶ谷辺を散歩を致したのが二人で外出した最後でございました。その門は亡くなる二日前程から取りかかりまして亡くなってから葬式の間に合うように急いで造らせました。
※(『八雲の妻 小泉セツの生涯』著者・長谷川洋二)『小泉八雲全集─別巻』(第一書房・一九二七)所収のテキストを元として、漢字を旧字体から新字体に改め、編集部のミスとみなすべき点を訂正した。(プレジデントオンライン編集部)「つ」を「っ」にするなど、読みやすくするため現代文調に一部改め、長い段落は改行した。
