※本稿は、工藤美代子『小泉八雲 漂泊の作家ラフカディオ・ハーンの生涯』(毎日文庫)の一部を再編集したものです。
日本語をマスターしなかったワケ
ハーンが、あれだけ長い年月を日本で暮らしながら、ついに日本語をマスターしなかったのは、不思議といえば不思議です。それは、おそらく、彼が自分の持っている言語に関するエネルギーは、すべて英文の著作につぎ込んだためだと私は推測しています。執筆にあたっての彼の言葉に対する厳格さは想像を絶するものがありました。だからこそ、あれだけ完成度の高い作品が生まれたのです。エネルギーの最後の一滴まで絞り取るようにして原稿用紙に向かっていたのですから、日本語にふりむける余裕がなかったのは当然でした。
「つまり、日本のトピックスについての一連の講義を、――心理的な、宗教的な、社会的な、そして芸術的な印象を折にふれて扱いながら、やってみることができましょう。」
「私ができないのは、日本の歴史、あるいは何か特定の日本の主題について、権威者としてふるまうことです。私の講義の価値は示唆的であるということにつきます。――事実の明確化にあるのではありません。」
長男をアメリカに連れていく計画
簡単にいってしまえば、作家としてアメリカの大学に迎えられれば職責を全うできるが、普通の教師としての講義を期待されても無理だという意味だったと思います。
ハーンはもしアメリカに行くようなら長男の一雄を同伴するつもりでした。「息子が勇敢なアメリカ市民になってほしいと思います」とすら書いているので、自分自身も経済的な裏付けさえあれば、アメリカに長期間滞在したい気持ちはあったはずです。
「長男については、残酷と陰謀の異様な世界からどのように救ってやろうかと案じています」とか「だが、彼の性格はおとなしすぎます。まったく悪というものを知りませんので、――日本のような世界では彼にどんな機会があるのでしょうか?」などと訴えているのは、今までのハーンのテーマソングでもある、社会が自分を不当に扱うという意識を長男の生涯にまで投影させていたからでしょう。