一時は「私生児」とされた一雄
明治28年(1895)8月、セツが小泉家の分家をつくることから手続きははじめられた。「ばけばけ」では、松野家の戸籍にはトキの前夫、銀二郎が残っていたので、トキが松野家を出て宇清水家の戸籍に戻る。
一方、史実のセツは前夫の為二と離婚する時点で、戸籍を養父母の稲垣家から実父母の小泉家に戻していた。しかし、ハーンの籍を入れるために、セツを戸主とする分家を立てる必要があったのだ。そこに一雄の出生届が、「セツ私生児」として出生時の「遺漏」への詫びとともに加えられた。
続いて10月に、セツが島根県知事宛てに「外国人結婚願」を提出し、翌月、実弟の小泉藤三郎(「ばけばけ」で板垣李光人が演じる三ノ丞のモデル)が、松江市長宛てに上申書を出した。その間、「ばけばけ」の錦織友一(吉沢亮)のモデルである西田千太郎がなにかと仲立ちをし、同29年(1896)1月になって、島根県知事から「外国人入夫結婚」を認める書類が届いた。
同時に、ハーンの帰化申請が行われた。前年11月に書類が出されると、神戸市役所の職員がハーン宅を訪れたり、セツに尋問したりし、兵庫県知事からは天皇への忠誠まで求められた。こうして帰化が成立したのち、ハーン改め小泉八雲がセツの戸籍に入って戸主を相続。2月13日、一時は「私生児」とされた一雄を長男にして、正式に入籍が整っている。
自分の死期を悟っていたか
ところで「八雲」という名前だが、「ばけばけ」では、トキの祖父である勘右衛門(小日向文世)が提案した。『古事記』と『日本書紀』に記された最古の和歌「八雲立つ/出雲八重垣/妻籠みに/八重垣つくる/その八重垣を」から採られた。
それは史実と重なる話で、西田によれば、勘右衛門のモデルである稲垣万右衛門が、この歌から命名したという。「八雲立つ」はハーンの日本愛の原点である美しい出雲(島根県東部)の枕詞。しかも、櫛名田比売を娶った須佐之男命の歌だから、ようやく実現したハーンとセツの入籍にふさわしかった。
ハーンは心臓に持病をかかえ、早い時期から自分の死期を悟っていた気配がある。一雄が生まれたとき、ハーンは43歳、セツは25歳で、遺産問題は決して遠い将来の話としては認識されていなかったようだ。
ハーンが亡くなったとき、セツは36歳で、10歳の一雄から1歳の寿々子まで4人の子どもをかかえていた。彼らの生活は遺産と印税によってその後も守られ、ハーン改め八雲の強い願いは叶えられたのである。
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。