結婚の誓い→入籍まで5年かかったワケ
待望の長男が生まれると、レフカダ・ヘブン(トミー・バストウ)は松野トキ(髙石あかり)に、「シッカリ、ケッコン、シマセンカ?」と提案した。NHK連続テレビ小説「ばけばけ」の第22週「アタラシ、ノ、ジンセイ。」(3月2日~6日放送)。2人は杵築大社(現・出雲大社)で結婚を誓いはしても、入籍してはいなかった。
2人のモデル、ラフカディオ・ハーンと小泉セツの場合も、結婚を誓ってから入籍するまでに5年近く経っている。それはひとえに、当時の国際結婚が大変な面倒ともなったからだ。「夫婦なのになぜ入籍しないのか」と軽々しく言うことなど、とてもではないが、はばかられる。
「ばけばけ」では、第23週「ゴブサタ、ニシコオリサン。」(3月9日~13日)で、ヘブンとセツは「入籍」の方法を探り、2つの方法があると知る。1つは、トキと長男がヘブンの戸籍に入り、イギリス人になる方法で、その場合、妻子はヘブンの遺産を受けとれない。もう1つは、ヘブンが日本人になってトキの戸籍に入る方法だが、外国人の特権が失われ、海外に渡るのも困難になる。
実際、外国人と入籍する方法は、当時はこれら2つに分かれた。それを受け、ヘブンは遺産が家族に渡るように、日本人になる道を選ぶ。
帰化すると給料が大幅に下がる
ハーンの場合も、国際結婚はすなわち帰化でなければならなかった。「ばけばけ」のヘブンは、『日本滞在記』を書き上げたあとは、日本国内に執筆のテーマをなかなか見つけられずにいる。だが、ハーンはヘブンよりはるかに古い日本への愛が深く、書くテーマも尽きなかった。つまり、日本への愛は、日本に帰化するひとつの動機になった。
しかし、なにしろ当時、日本に帰化した欧米人は、ほかにゼロではないが、ほとんど例がなかった。しかも、手続きは煩雑で審査も厳しかった。ハーンの場合、セツの戸籍に入る道を選ぶ場合、島根県から内務省に書類が送られ、そこで厳密な審査が行われことになる。
その結果、無事に日本人になれても、外国人だから特権的に認められている高給が、帰化した途端に日本人並みに下がってしまう、という前例があったようで、ハーンもそれがゆえに帰化への躊躇があったようだ。
というのも、ハーンが日本への帰化を望んだ最大の動機は、妻子を法律的に保護し、自分の遺産を確実に相続させることにあった。日本への愛情以上に妻子への思いや気遣いは深く、そうである以上、給料が激減してしまっては本末転倒である。とはいえ、外国人のままでは日本に土地を取得することさえ困難で、どうしたものか悩ましかったようだ。
遺産問題で絶対に避けたかったこと
こうした困難を、時系列を追って確認したい。
ハーンは明治24年(1891)の夏、前述のように杵築でセツとの結婚を誓った直後、アメリカの友人ペイジ・ベイカーに手紙を送った。そこには、法的な問題があるために入籍していないことや、国籍が違う同士の結婚にいかに法律上の問題がからむか、ということが細かく記されている。つまり、ハーンは当初から、入籍についての思いをめぐらせていたのである。
以来、入籍への思いが緩むことはなかったものの、すでに記したように、帰化して給料が激減してしまうような本末転倒を避けたいこともあり、具体化には至らずにいた。だが、長男(ラフカディオの「カディオ」をとって「一雄」と名づけられた)が生まれると、もはや事態をあいまいにしておくわけにはいかなかった。
ハーンにはアメリカに実弟が、イギリスに異母妹がいた。セツと戸籍上の結婚をしないままだと、自分の死後、遺産を愛する妻子が受け取ることができず、ほとんど縁のない弟や妹に渡ってしまう。そうなることを、ハーンは絶対に避けたかった。
実際、熊本時代にハーンがセツに宛てた2通の遺言状には、「私が死亡した場合、動産または不動産を問わず私が所有している財産はすべて、自分の子どもの母親である小泉セツに遺贈する」と書かれている。
熊本時代に貯金は2~3億円
しかし、いくら遺言状に書いたところで、法的には遺産は弟や妹のものになる。入籍しても国籍を変えなければ、やはり同じ結果になる。
そうである以上、入籍および帰化を急ぐしかない。ただし、「ばけばけ」のヘルンは、長男が生まれた直後に熊本でその手続きをはじめるが、ハーンは一雄が生まれて10カ月以上経った明治27年(1894)10月、熊本から神戸に転居したのちに手続きをはじめた。
そのころにはハーンの財産はかなり蓄えられていた。熊本生活の最後に、ハーンがシンシナティで世話になった恩人ヘンリー・ワトキンに送った手紙によれば、貯金の額は「4000ドル近く」あったという。4000ドルは当時のレートで4000円程度だと思われる。当時の1000円はいまの5000万~6000万円ともいわれるから、貯金の額は2億~3億円にもなったことになる。
しかも神戸に転居したころには、印税収入だけで年間1300万円ほどあったという。現在の7000万円ほどだろうか。これだけあれば給料が下がっても、たとえ無給になっても、十分に暮らしていける。だが、なにもしなければ、貯金も印税もみな弟や妹に渡ってしまう。もはや帰化を躊躇する理由はどこにもなかった。
一時は「私生児」とされた一雄
明治28年(1895)8月、セツが小泉家の分家をつくることから手続きははじめられた。「ばけばけ」では、松野家の戸籍にはトキの前夫、銀二郎が残っていたので、トキが松野家を出て宇清水家の戸籍に戻る。
一方、史実のセツは前夫の為二と離婚する時点で、戸籍を養父母の稲垣家から実父母の小泉家に戻していた。しかし、ハーンの籍を入れるために、セツを戸主とする分家を立てる必要があったのだ。そこに一雄の出生届が、「セツ私生児」として出生時の「遺漏」への詫びとともに加えられた。
続いて10月に、セツが島根県知事宛てに「外国人結婚願」を提出し、翌月、実弟の小泉藤三郎(「ばけばけ」で板垣李光人が演じる三ノ丞のモデル)が、松江市長宛てに上申書を出した。その間、「ばけばけ」の錦織友一(吉沢亮)のモデルである西田千太郎がなにかと仲立ちをし、同29年(1896)1月になって、島根県知事から「外国人入夫結婚」を認める書類が届いた。
同時に、ハーンの帰化申請が行われた。前年11月に書類が出されると、神戸市役所の職員がハーン宅を訪れたり、セツに尋問したりし、兵庫県知事からは天皇への忠誠まで求められた。こうして帰化が成立したのち、ハーン改め小泉八雲がセツの戸籍に入って戸主を相続。2月13日、一時は「私生児」とされた一雄を長男にして、正式に入籍が整っている。
自分の死期を悟っていたか
ところで「八雲」という名前だが、「ばけばけ」では、トキの祖父である勘右衛門(小日向文世)が提案した。『古事記』と『日本書紀』に記された最古の和歌「八雲立つ/出雲八重垣/妻籠みに/八重垣つくる/その八重垣を」から採られた。
それは史実と重なる話で、西田によれば、勘右衛門のモデルである稲垣万右衛門が、この歌から命名したという。「八雲立つ」はハーンの日本愛の原点である美しい出雲(島根県東部)の枕詞。しかも、櫛名田比売を娶った須佐之男命の歌だから、ようやく実現したハーンとセツの入籍にふさわしかった。
ハーンは心臓に持病をかかえ、早い時期から自分の死期を悟っていた気配がある。一雄が生まれたとき、ハーンは43歳、セツは25歳で、遺産問題は決して遠い将来の話としては認識されていなかったようだ。
ハーンが亡くなったとき、セツは36歳で、10歳の一雄から1歳の寿々子まで4人の子どもをかかえていた。彼らの生活は遺産と印税によってその後も守られ、ハーン改め八雲の強い願いは叶えられたのである。