明治時代の皇族と身分秩序の因縁

旧宮家の中で、最初に創設されたのが伏見ふしみ宮家で、1409(応永16)年のことだった。他に、明治以前に創設された宮家は、かつら宮家、有栖川ありすがわ宮家、閑院かんいん宮家であり、これは天皇を輩出する可能性があるため「世襲親王家」と呼ばれた。ただ、有栖川宮家と桂宮家は戦前に断絶しており、戦後まで続かなかったので、養子案の対象となる旧宮家には入らない。

のちの旧宮家のうち、山階やましな宮家は1864(元治元)年の創設とかろうじて江戸時代の創設である。他は皆、明治以降の創設で、朝香あさか宮家、竹田たけだ宮家、東久邇ひがしくに宮家となると1906(明治39)年の創設と、歴史は相当に浅い。小説の中の有栖川宮熾仁親王が皮肉を言うのも、そうした背景があるからである。

江戸時代には、「士農工商」という身分秩序があったとされるが、現在では否定されている。身分秩序が明確になったのは、むしろ明治時代になってからである。皇族を頂点に、それを支える「華族」がいて、元武士は「士族」という地位を与えられた。その下に一般の国民を意味する「平民」が位置づけられた。まさに4つの身分があったわけで、それが江戸時代に投影されたのだ。

旧宮家の序列は暗黙の了解

身分秩序がはっきりしている社会では、家の格の違いが強く意識される。それは旧宮家についてもいえることで、古くからの歴史を持つ旧宮家の人間は、新興の宮家を明らかに差別していたのだ。

そうした意識は、現在にも受け継がれていることであろう。となると、旧宮家から養子が出る場合、最初に手を挙げるのは伏見宮家でなければならない。他の旧宮家は必ずや遠慮する。

1896年、ロシア皇帝ニコライ2世の戴冠式に出席した伏見貞愛親王(前列左から3番目)
1896年、ロシア皇帝ニコライ2世の戴冠式に出席した伏見貞愛親王(前列左から3番目)(写真=雑誌『太陽』第2巻第18号、明治29年9月5日刊行、口絵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

ところが、伏見宮家は断絶する見込みである。同じ世襲親王家に含まれる閑院宮家は、すでに断絶している。さらに、江戸時代の終わりから明治時代のはじめにかけて創設された山階宮家、北白川きたしらかわ宮家、梨本なしもと宮家も断絶している。

古い旧宮家はことごとく断絶しているか、その見込みである。次に古いのが1875(明治8)年に創設された久邇宮くにのみや家で、この家は現在男子がいて断絶はしていない。となると、最初の養子は久邇宮家からとなりそうだが、そこには、養子案には不都合な問題が潜んでいるのである。