第2次高市内閣で、皇位継承問題はどうなるか。皇室史に詳しい島田裕巳さんは「皇室を離れた旧宮家の男子を皇族が養子に迎えるという旧宮家養子案には、重大な障害がある。皇室存続のためには、『女性天皇』や『女系天皇』への道を開いておくしかない」という――。

「男系男子に限る」とした首相発言の“誤読”

「愛子天皇」待望論は、新たな局面を迎えようとしている。

高市首相は、皇位継承の安定化のための皇室典範の改正に前のめりになっている。ところが、2月27日の衆議院予算委員会でのこれに関連する答弁が波紋を呼ぶことになった。

高市首相は、皇位の継承は「男系男子に限定される」という考えを示し、その際に2021年の有識者会議の報告書を基にして答弁をした。しかし、その報告書にはそんな記載はなかったのだ。そこで木原官房長官は、首相の答弁は旧宮家の養子案を念頭においたものだと釈明した。

どうやら首相は報告書の内容を誤解したようだ。

また、「男系男子に限定される」という発言は「愛子天皇」を待望する人たちをいたく失望させることになった。女性最初の首相はその道を封じようとしているからである。

2026年2月23日、一般参賀で天皇皇后両陛下の娘である愛子内親王が祝福する人々に向かって微笑む。この日、天皇は66歳の誕生日を迎えられた。
写真=EPA/FRANCK ROBICHON/時事通信フォト
2026年2月23日、一般参賀で天皇皇后両陛下の娘である愛子内親王が祝福する人々に向かって微笑む。この日、天皇は66歳の誕生日を迎えられた。

しかしながら、失望するのはまだ早い。というのも、「旧宮家養子案」には問題があるからだ。現在の皇族が、戦後に皇室を離れた旧宮家の男子を養子にとるという計画には、重大な障害が待ち受けているのである。そのことについて、高市首相は十分に認識していない。

今回は、その“重大な障害”について明らかにしていきたい。

「人は急に宮さまにはなれない」という吐露

旧宮家の養子案の実現が難しいことは、すでに指摘されている。その点についてはすでに述べた。旧宮家の人々が皇室を離れ、一般の国民と同じ生活をするようになってから、80年近い歳月が流れた。そうした人々が、制約が多い皇族に復帰するのは難しく、間違いなく相当な覚悟が必要である。

宮内庁は、旧宮家の人々にその可能性を打診していない。皇室典範が実際に改正されないと、宮内庁としても動けないのだ。したがって、実際に養子になる男子が現れるのかどうか、現在のところ、まったくの未知数なのである。

旧宮家の一人、伏見博明氏は、2022年に『旧皇族の宗家・伏見宮家に生まれて 伏見博明オーラル・ヒストリー』(中央公論新社)を出版した後、朝日新聞のインタビューに答え、「天皇陛下に言われ、国から求められれば従う」という意向を示した。

養子案を推し進めようとする人たちは、この伏見氏の発言をよりどころにしているのかもしれない。だが、伏見氏は「人は急に宮さまにはなれない」とも語っていた。伏見氏は、現在94歳で存命だが、子どもに男の子はおらず、伏見家は断絶が見込まれている。天皇から求められても、伏見家からは養子を出せないのだ。

旧宮家から養子が出るのか。その可能性を探るには、旧宮家の抱えている複雑な内情に迫っていかなければならないのだ。

“雨後のタケノコ”のように増えた宮家

その際に格好の手引きになるのが、前にも紹介した林真理子氏の短編小説集『皇后は闘うことにした』(文藝春秋)である。この小説集は5つの作品からなっており、戦前における皇族や華族の結婚がテーマになっている。

小説家というものは、人間のエゴがいかに醜いものであるかを容赦なく描き出していくが、この小説はその典型と言えるものである。

『皇后は闘うことにした』には、実は同じような記述がくり返し登場する。たとえば、「徳川慶喜家の嫁」という作品では、有栖川宮熾仁ありすがわのみやたるひと親王の姪である実枝子みえこが、徳川慶喜の嫡子、慶久よしひさと結婚することについて、熾仁親王が「雨後のタケノコのように出てきた宮家に嫁ぐよりはいいだろう」と皮肉を言う場面が出てくる。

小説では、それに続けて、「維新直前までは、宮家というのは有栖川宮家を入れてたった四つしかなかった。しかし明治政府は、僧侶となっていた皇族たちを還俗げんぞくさせた。彼らが町の女たちに次々と子どもを産ませ、今宮家は十一家になろうとしている」とつづられている。随分と、どぎつい表現だ。

旧宮家同士の「新興勢力」格差

興味深いのは、政府がそれにあわてて、嫡男以外の宮家継承を認めなくなり、養子も禁止したと述べられていることである。

旧宮家が増えたことが、旧皇室典範で“養子が禁じられた”理由だというわけである。今の養子案を考えると、これこそ皮肉な話である。

現在の議論では、旧宮家という形で11の家が一括して取り上げられる。だが、旧宮家の間には歴史の違いがあり、古くからの宮家は、明治以降に誕生した新しい宮家について「新興勢力」として、自分たちの仲間とは見なしていなかったのだ。

タイトルにもなった「皇后は闘うことにした」という作品でも、「伏見宮は、最も古い四つの宮家の一つである。維新に伴い、次々と出来た宮家とは違う」という箇所が出てくる。こうした箇所は、5つの短編のうち4つの作品に出ている。

林氏はよほどこの点を強調したかったのであろう。高市首相は、自分の言いたいことを強調するために、5回同じフレーズをくり返し、それが流行語大賞にもなった。高市首相には、是非この小説を読んでもらい、林氏の意図を十分に汲んでほしい。読めば、養子案の実現がいかに困難な問題かが、たちどころにわかるはずだ。

では、その困難さはどこから来るのだろうか。

自民党・高市早苗総理(2025年10月)
自民党・高市早苗総理(2025年10月)(写真=首相官邸/CC-BY-4.0/Wikimedia Commons

明治時代の皇族と身分秩序の因縁

旧宮家の中で、最初に創設されたのが伏見ふしみ宮家で、1409(応永16)年のことだった。他に、明治以前に創設された宮家は、かつら宮家、有栖川ありすがわ宮家、閑院かんいん宮家であり、これは天皇を輩出する可能性があるため「世襲親王家」と呼ばれた。ただ、有栖川宮家と桂宮家は戦前に断絶しており、戦後まで続かなかったので、養子案の対象となる旧宮家には入らない。

のちの旧宮家のうち、山階やましな宮家は1864(元治元)年の創設とかろうじて江戸時代の創設である。他は皆、明治以降の創設で、朝香あさか宮家、竹田たけだ宮家、東久邇ひがしくに宮家となると1906(明治39)年の創設と、歴史は相当に浅い。小説の中の有栖川宮熾仁親王が皮肉を言うのも、そうした背景があるからである。

江戸時代には、「士農工商」という身分秩序があったとされるが、現在では否定されている。身分秩序が明確になったのは、むしろ明治時代になってからである。皇族を頂点に、それを支える「華族」がいて、元武士は「士族」という地位を与えられた。その下に一般の国民を意味する「平民」が位置づけられた。まさに4つの身分があったわけで、それが江戸時代に投影されたのだ。

旧宮家の序列は暗黙の了解

身分秩序がはっきりしている社会では、家の格の違いが強く意識される。それは旧宮家についてもいえることで、古くからの歴史を持つ旧宮家の人間は、新興の宮家を明らかに差別していたのだ。

そうした意識は、現在にも受け継がれていることであろう。となると、旧宮家から養子が出る場合、最初に手を挙げるのは伏見宮家でなければならない。他の旧宮家は必ずや遠慮する。

1896年、ロシア皇帝ニコライ2世の戴冠式に出席した伏見貞愛親王(前列左から3番目)
1896年、ロシア皇帝ニコライ2世の戴冠式に出席した伏見貞愛親王(前列左から3番目)(写真=雑誌『太陽』第2巻第18号、明治29年9月5日刊行、口絵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

ところが、伏見宮家は断絶する見込みである。同じ世襲親王家に含まれる閑院宮家は、すでに断絶している。さらに、江戸時代の終わりから明治時代のはじめにかけて創設された山階宮家、北白川きたしらかわ宮家、梨本なしもと宮家も断絶している。

古い旧宮家はことごとく断絶しているか、その見込みである。次に古いのが1875(明治8)年に創設された久邇宮くにのみや家で、この家は現在男子がいて断絶はしていない。となると、最初の養子は久邇宮家からとなりそうだが、そこには、養子案には不都合な問題が潜んでいるのである。

奔放すぎる“恋多き”皇族

林氏の短編小説集の最初に収録されている「綸言汗の如し」の主人公は、久邇宮家の第3代当主であった朝融あさあきら王である。その妹は、昭和天皇と結婚した良子ながこ皇后であった。

久邇宮朝融王(1901~1959)
久邇宮朝融王(1901~1959)(写真=国立国会図書館アーカイブ/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

朝融王は旧姫路藩藩主であった酒井家の菊子を見初め婚約をするのだが、途中で嫌になってしまい破談にする。皇族の婚約には天皇の許可がいる。それをくつがえしてしまったわけだから、これは大きな騒ぎになった。

その後、朝融王は伏見宮家の知子女王と結婚するものの、妻のいない隙に侍女と関係を持ち、しかも妊娠させてしまう。その子どもは養子に出されるが、朝融王の女性関係はそれにとどまらなかった。朝融王には妻との間に8人の子どもができたが、他に10人を超える子どもをつくったらしい。

朝融王の子孫となる男子は、先祖とは異なり、品行方正な人生を歩んでいることだろう。しかし、久邇宮家の男子が養子に応じるとしたら、世間は必ずや朝融王の奔放な人生に注目し、メディアもそれを詳しく報じるであろう。まして現代はSNSの社会であり、誰もが情報を発信できる。

その点で、久邇宮家の男子が手を挙げることは考えられない。挙げたら、とんでもない目に遭うことがわかっているからだ。皇族としても、そこから養子をとることには難色を示すであろう。

旧宮家養子案が行きづまるワケ

では、そうなったとき、他の旧宮家から手が挙がるだろうか。

その可能性があるのは賀陽かや宮家、竹田宮家、東久邇ひがしくに宮家しかない。

その中では賀陽宮家の創設が最も古く1900(明治33)年のことである。となれば、養子は賀陽宮家からとなるであろうが、そこが手を挙げれば、なぜ久邇宮家からではないのかとも言われるであろう。となれば、賀陽宮家からも難しく、まして、歴史の浅い竹田宮家や東久邇宮家から養子に入るのは考えにくい。

そうした旧宮家の内情を考えてみれば、養子案の実現が相当に難しいことがわかる。養子案を推奨してきた保守派は、その困難さを十分には認識していないように思われる。

皇室典範が改正され、皇族が旧宮家から養子をとることが可能になったとしても、誰も手を挙げなければ、それは実現されない。その後、いくら時間をとっても、事態は変わらないであろう。

そうなると、皇位継承の安定化、皇族数の確保の問題は、今以上に深刻なものになる。となれば、もう一つ議論になってきた「女性宮家の創設」ということになるであろう。他に選択肢はない。

ただ、養子案が頓挫した以上、皇族の数を増やすには、女性の皇族と結婚した配偶者と子どもを皇族にするしかなくなる。後は、悠仁親王と、そこに子どもが生まれることを期待するしかない。しかしそれは、親王の結婚相手に今以上にプレッシャーをかけることになり、事態はさらに難しさを増す。

女性天皇や女系天皇への道を開いておく。それが不可欠の手立てとして浮上する。「愛子天皇」待望論は、冒頭にも指摘したように、新たな局面を迎えようとしているのである。