戦争、地震、台風に続く困難
敏子さんは1929年、名古屋市で生まれ、戦時中に家族で約50キロ離れた西尾市に疎開してきた。敏子さんが結婚した夫の父親が創業した店が、現在約100年の歴史を持つ盛華堂だ。
海から徒歩15分ほどの盛華堂が位置する地域は、かつては海苔の養殖や塩の生産が盛んな場所だった。芸者町でもあり、周囲にある多くの旅館から芸妓たちが奏でる三味線の音色が聞こえてきたという。
「今でこそさびれちゃったけどね、昔はすごい賑わってたんだよ。有名な旅館があって、映画俳優やお相撲さんなんかも来たもんだよ」
20代の頃に嫁いだ敏子さんは、義父の営む店を手伝うようになった。当時、よく売れたのはまんじゅうや草餅、蒸しカステラなど。みたらし団子は昭和の中頃から、メイン商品の合間に少量をつくるスタイルで始めた。夫は会社員だったため、敏子さんは義父から菓子づくりの技術を学び、2人が主となって店を切り盛りした。
しかし、敏子さんが西尾に来てからは、困難の連続だった。空襲から逃れて疎開してきたことに加え、1945年に発生した震度6の三河地震では、死者が2000人近くに及んだ。盛華堂は無事だったものの、近所には倒壊した家があったという。さらに、1959年には伊勢湾台風が襲った。盛華堂も腰の上まで浸水し、砂糖などほとんどの材料がダメになってしまった。
そして、もっともつらかった出来事は、夫が37歳のときに病気で他界したことだ。当時、敏子さんの一人息子はまだ小学校3年生だった。続いて、その3年後に一緒に店を営んできた義父が交通事故で亡くなった。義父は壊れた道具を直すような、手先の器用な人だったそうだ。お菓子作りを教えてくれただけではなく、細かいところに気がつくやさしい人だった。
敏子さんは夫と義父を立て続けに亡くし、店を守りながら幼い息子を育てなければならなかった。仕事と家事、育児もするには義母の力を借りたのだろうと想像したが、そうではなかった。
朝3時に起きて、夜11時まで働く生活
地主の娘で明治生まれの義母は、香水をつけて出歩くようなおしゃれな人だった。しかし、敏子さんには「贅沢するな」と言っておきながら自分は美容院に行くなど、敏子さんにつらく当たることもあったそうだ。
「私は15歳のときに母親を亡くして、父親も早くに亡くしてね。実家なんてありゃせんしね、行くところがない。すごく苦労したよ。ようトイレで泣いたね」
敏子さんは店のことに加えて、家事、育児と、忙しく動き続けた。朝3時に起きてまんじゅうをつくり、店を開け、あんこを炊くなど翌日の仕込みをして、子どもの面倒も見て、就寝するのは夜の11時頃。当時はまだ冷蔵庫が普及しておらず、つくり置きができなかったため、その日に売る分は当日につくるしかなかった。接客は義母やスタッフが担当したものの、商品は敏子さんが一人でつくり続けた。
「寝たかどうかわからせん」ような生活を、敏子さんは少なくとも20年以上は続けた。
義母の晩年は、介護もした。デイサービスのような施設がまだ整っていなかった時代、敏子さんは店を開けながら、自宅で義母の暮らしを支えた。糖尿病を患っていた義母は食事に制限があったが、好き嫌いが激しく、要望を聞くのも大変だった。
義母が85歳で亡くなるまで、敏子さんは家族として寄り添い続けたのだ。