朝ドラでは描かれない後半生

「マッサン」では政春が退社した後、鴨居の出番は大幅に減り、戦時中・戦後・晩年は描かれなかった。しかし史実の信治郎には、まだ波乱の人生が続いていた。

昭和15年(1940年)、後継者に据えていた長男・吉太郎が急逝した。まだ33歳だった。病名は心臓性喘息による心筋梗塞。しかし診断の決定が遅れたことが命取りになった。信治郎は葬儀の席でも「日本の医学は、なっとらん」と激怒したという。すでに妻クニを亡くしていた信治郎にとって、最愛の息子を突然失った衝撃は計り知れなかった。

ニッカウヰスキーの余市蒸留所
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ニッカウヰスキーの余市蒸留所 ※写真はイメージです

妻と長男を相次いで亡くす

物事にくよくよしない性分の信治郎が、このときばかりはあとあとまで悲しみ、「片腕をもぎとられてしもた」と人前もはばからず嘆いた。同年11月には実兄・喜蔵も死去。若い頃さんざん遊んで尻拭いの面倒をかけた兄だった。愛する者たちが次々と逝く中、信治郎は事業へ没頭していった。「マッサン」で鴨居の長男・英一郎が物語中盤で亡くなる展開は、吉太郎の早世がモデルとみられる。

翌昭和16年(1941年)12月、日本は太平洋戦争に突入。士気の鼓舞に酒が、近代兵器の燃料にアルコールが不可欠となり、寿屋の事業は軍需品として拡充されていく。昭和19年(1944年)には海軍大臣から軍需会社に指定され、「赤玉ポートワイン」や「サントリーウイスキー」は軍納に限られた。

66歳で終戦を迎え、事業再起動

そんな中、海軍から航空食用としてビタミンP入りのウイスキーを作るよう命じられた。現場が苦心して作り上げた試作品を一口飲むと、信治郎は顔をしかめてこう言った。「ウイスキーは、薬やないで。楽しんで飲んでもらうもんや。こんなもん出したら、商人の恥や」。そのウイスキーはとうとう納入しなかった。軍命に逆らってでも本物を守る。信治郎は商人である前に、いい製品を作りたいという一念に燃えた職人だった。

昭和20年(1945年)3月、大阪大空襲で本社が全焼。4月には大阪工場も設備の大半を失った。比叡山の熱心な信者だった信治郎は「うちの工場には、爆弾なんか落ちまへんわ」と信じていたが、現実は厳しかった。しかし山崎蒸溜所だけは守り抜いた。

終戦の日、海軍命令で計画していた臼杵工場の地鎮祭が行われていた。祝いの酒を飲み始めたところで玉音放送が始まった。多くの国民が敗戦のショックに打ちのめされる中、66歳の信治郎は逆に動き出した。会社組織を解体・再編し、米軍の先遣隊が大阪に進駐すると司令部に乗り込んでウイスキーの取引を持ちかけた。「日本はきっと復興する」と信じていたのである。