破格の年俸で、竹鶴をスカウト
大正13年(1924年)、約200万円の巨費を投じた山崎蒸溜所が完成。昭和4年(1929年)、国産ウイスキー第1号「サントリー白札」が発売された。しかしスコッチ特有のスモーキーな香りが「焦げ臭い」と不評で、経営は苦境に陥った。
信治郎の経営姿勢は「家族的で、温情主義的」だった。大正時代から家族手当を支給し、工場では当時としてはぜいたくな給食を提供。社員が病気になれば治療代や入院費を負担した。まだ小僧(雑用をする少年)を二人しか使っていなかった時代、小僧の部屋に南京虫が出ると聞くと、夜更けに蝋燭を灯して柱の割れ目や戸障子の隙間を覗きながら虫退治をした。目を覚ました小僧が主人の四つんばいの姿を見てうれし泣きをしたという。
一方で厳しさも併せ持っていた。工場の棚の上を指でなでてホコリがつくと「人さまの口の中へ入るもんを製造しとるんや」と責任者を叱りつけた。黒いトンビを着て工場の中を縦横に駆け回る姿は「まるで蝙蝠がはためいているよう」だったという。
竹鶴は10年で退社、ニッカを創業
昭和9年(1934年)、10年の契約期間を終えた竹鶴は寿屋を退社し、北海道余市で大日本果汁(後のニッカウヰスキー)を設立した。「マッサン」ではウイスキーの方向性をめぐる対立が強調されたが、竹鶴自身はどう振り返っていたのか。
竹鶴の自伝『ヒゲと勲章』(日本経済新聞社)にはこう記されている。
「私が摂津を出てから寿屋に入社し、その後、独立した因縁から、私が鳥井さんとけんかしたのだろうといわれ、はてはウイスキーしか知らぬ頑迷者とのレッテルをはられてしまった」。
竹鶴は世間の誤解を解くために筆を執り、鳥井の熱意に惹かれて入社したこと、工場建設に関して一切干渉されなかったことを明かしている。
「サントリーはサントリーの方針で経営していることだ。私は自分の信念――日本のウイスキーを世界的レベルに引き上げることだけを考え」と、互いの道を尊重する姿勢を示した。
竹鶴退社後、信治郎は長男・吉太郎とともに試行錯誤を重ね、昭和12年(1937年)、「サントリーウイスキー12年」を完成させた。亀甲模様の角ばったボトルから「角瓶」の愛称で親しまれ、大ヒット商品となった。